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二〇一二年 十二月二十四日 広島

 夕暮れの繁華街。

 この街には珍しい粉雪が舞い、クリスマスムードは最高潮の盛り上がりを見せていた。

 電車が遅れる前に帰路につくべく、定時で帰宅を急ぐ会社員。 

 その足並みを一人でも多く引き止めようと、オープンしたばかりの家電量販店には、即席サンタが多数駆けつけ、不況のこの国の寒さを、一時であれ払拭するべく声をはりあげている。

 平和記念資料館から始まる平和大通りには、毎年この時期になると<ひろしまドリミネーション>と題されたイルミネーションが、通りの木々に豪華に飾られ、夜に向け多くの家族連れやカップルで賑わいを見せる。このきらびやかなイルミネーションの中で、一人マイクを片手に震えている女性がいた。

 田村 沙里(たむらさり)である。
 
 PR代理店会社勤務の彼女は帰国子女であり、二十六歳という若さにしてこれまで海外のクライアントとの仕事も多数こなし、地方には珍しい逸材として、界隈で評判の若きエース。タイトなスーツが、ややぽっちゃりとした体を引き締め、張り詰めた空気を醸し出していた。

 PRイベント会場にいる時の眼差しは鋭いがしかめっ面というわけではなく、細かいスタッフの動きも見逃さない洞察力の鋭さが現れている。常にiPadを片手にタスクをチェックし、彼女さえいれば作業上必要な情報はすべて手にはいり、司令塔として十分すぎる判断をこなしてくれる。

 周囲のスタッフは彼女がジャケットの前ボタンを外し、まるでお風呂にでも入っているかのような雰囲気で「つかれた~」と伸びをするのをいつも待っていた。それこそが本日のお仕事終了の合図。 毎日ほどよい仕事量で難なく一日が終了するので、スタッフは皆もうそろそろか? と少しばかりそわそわと作業を行なっていた。

 沙里はいつものようにジャケットのボタンを外すと会場隅のスタッフチェアに腰掛け、バッグの中から小さな花柄の女の子らしい可愛い巾着を取り出した。スタッフが見守る中彼女は淡々と小さな湯のみをとりだして、ペットボトルのお茶を注いだ。

「本日はイベント2日前。このあと全体チェックを一度行います。各自30分まで休憩で」

 街はクリスマス。「わりかし楽な仕事だ」と思ったのにと、スタッフは落胆の表情。ざわめくスタッフに、沙里は追撃の一言。

「皆さん手は、抜いてませんよね」

 巾着には気をつけろ。が、この日からスタッフの合言葉になった。

 彼女が、初めて自分が手がけたいと思い、企画をし、スポンサーを発掘して仕掛けたイベントが、イルミネーションの中、屋外特設会場で開催する、フォトグラファー田中悟(たなかさとる)の写真展だった。それだけに気合の入れようが違ったのである。

 しかしここまで入念に準備をしてきて、イベント当日の今日、肝心の田中悟が、スピーチの時間になっても現場に現れていないのだ。

 悟と昔からの知人という、スポンサーでギャラリー経営者、島田 橙子(しまだとうこ)は、集まった多数の観客を前に固まる沙里の耳元でささやいた ……。

「やっぱりね……」

 この一言と、橙子がため息とともに見せた「私のほうが彼を知っている」 という、ほんの少し勝ち誇ったような微笑みを、沙里は見逃さなかった。そしてたまらなく悔しかった。マイクを力強く握りしめ、震える音が、スピーカーからかすかに漏れ出すほどに。

 その場の異変に気づいた観客は、誰からともなく雑談をやめ、一人、また一人と沙里を凝視する。司令塔の言葉を失ったスタッフはただただ動揺するばかり。

 悟を待つのか? 待たずに不在のコメントをここでするべきか?

 彼女の時間はこの時、完全に止まっていた。



二〇一一年 一一月 金曜・深夜

 遡ること一年前、まだ悟と沙里が出会ったばかりの頃。

「最近、一人で飲む酒の量が増えたんじゃないか?」

 沙里を気遣うのは、バーマスター、滝 良彦(たきよしひこ)。 

 フォトグラファーとして過去にはそれなりに活躍した人物らしいが、その経歴を口にすることはない。

 滝のガッシリとした体型にはスーツがよく似合う。 

 スーツは歳をとってから、出始めたお腹にあわせて着こなさないと様にならないと言う話もあるが、彼に関してはその逆で、体を鍛えあげる事でタイトに仕立てたスーツのラインを維持し、キリッと真っ直ぐに伸びた背中が魅せる落ち着きと貫禄は誰もが醸し出せるものではなかった。女性客が安心して飲みに来れるようなバーであることは、滝のたたずまいからも見て取れる。沙里は白髪まじりの口ひげに大人の色気を感じつつ、まるで映画ボディガードの「ケビン・コスナー」のようだと思っていた。

「いつもこれくらいは飲めるんです」

「そうだっけ?  初めて来た時モルトしか無いって言ったら、しばらく固まってた子がそんな酒飲みには思えないけど」

 滝はラフロイグ十年、シングルの水割りをカウンターに置く。 

 頬を赤らめ、カウンターの一点を見つめて長い息を吐き、沙里は一気に飲み干すと、黙ってグラスをマスターに差し出した。 

 さすがにこれ以上下手なことを聞くのはやめておこうと、滝は黙ってグラスを受け取ると、そっと流しにグラスを置いた。

 沙里は赤くなりゆく顔色とともにゆっくり眼を閉じた。このままほっておけば、きっと彼女は寝てしまうだろう。けれどたまには、それもよしとしておこうかと、滝が半ば呆れていると撮影帰りの田中悟がやってきた。

 滝はドアを開けた悟を見ると、沙里が眠り始めるよりはるかにまずい表情を浮かべた。 悟はと言うと、沙里の寝顔しか目に入っていない。

 悟はジーンズのポケットからiPhoneを取り出すと、沙里の寝顔を撮影しようとゆっくりと近づく。

「おい、やめろよ、盗撮じゃねえか、それじゃあ」

「彼女が起きたら、許可もらいますから」

 滝はほとほと呆れていた。悟の女癖の悪さに加え、かなりタイミングが悪い。悟がこの店に来る時は大抵他で一杯、いや十杯は引っ掛けたあと、最後の締めで来る。

 女性客さえいなければ、こいつはいい奴なんだけれど、と……

 悟は沙里の隣に座ると、沙里の寝顔を見つめながら。

「ヴァージン、ロック、W八年」

「ねえよ! 七年しか。 八年は廃版つったろう!」

 滝の手の中で、四角い氷は適当な楕円になり、グラスに余りつつ放り込まれ、バーボンは目分量で波なみと注がれた。 悟は出されたバーボンを飲む時、鼻に氷が当たっていようと、何も気にはならなかった。悟は眠る沙里の横顔をみつめながらつぶやいた。

「この子はなんでこう、さらけ出せるかね自分を」

 滝はグラスを洗う手を止めると、悟がまだ昔のことを断ちきれずにいることを察した。が、かけられる言葉はやはりなかった。

 そんなやり取りを全く知らず、いびきをかいてしまった、沙里がいた。 



 翌朝、沙里は自宅のベッドにいた。カーテンからほんの少し差し込む強い光線に、昼を過ぎたあたりかと、ぼやけた眼をこすりながら起き上がる。 テーブルの上に脱いだ洋服がまとめられている。それ事態もおかしなことなのだが、それよりもきちんと畳んでいない事が気になった。どれだけお酒を飲んだんだ? と思いつつ、玄関に鍵を掛けているのかどうか、すぐ確認に行くと、これも案の定チェーンが掛かってない。 これはいけない。よほど最近ストレスでも溜め込んでいたんじゃないかと、沙里はちょっと、自分をもとの生活スタイルに戻そうという気持ちになってシャワーを浴びた。

 日差しが心地よい土曜の午後15時頃。見あげた秋の空は、人を一人にさせてくれるような空間を作り出していた。何もかもがそのままでいいような、焦りや不安を一時も感じさせない暖かい空気が、人を、包み込んでいく。

 沙里はたまにしかない休日が惜しくて、二日酔いの眼差しにサングラスを当て、ふらふらと、街に出ていた。PR代理店という仕事柄、ショーウィンドーや、交差点の大きな電光モニターに映し出されるCMが普段は気になるのだが、今日はなぜかもうどうでも良くなっていたし、頭もさほど冴えていない。けれどこの状態が、なぜかとても心地良かった。 

 ――コーヒーでも飲んで、夜が来たら帰ろう。

 気まぐれに市内電車に乗りこむ。とはいっても、市内電車の路線はとても単純で、広島駅方面と、市内から遠く宮島まで行くことも出来る逆方向に大別される。宮島方面に向かえばJRと市内電車は海沿いを同じように走っていく。市内電車のほうが停車駅が多くのんびりと、そして安く小旅行が出来る。ただ、沙里はそこまで難しいことは考えていなかった。まだ慣れていない広島の街を少しでも探索したいという気持ちがあって面白半分で着た電車に乗ってみたいだけ。市内電車も広島港方面、横川、西広島と実は一つの路線を軸に分岐点がいくつかあり、それを使いこなさないと不便なのだ。 

 迷ってもいい時に思い切り迷っておくことも、沙里にとっては大事なことだった。 

 やってきた電車にとりあえず乗り込むと、青い空が車窓に広がり、差し込む陽射しが気持ちよく、そしていつしかうとうとと、また眠ってしまう沙里だった。

 窓に頭をぶつけ目を覚ました沙里。慌てて周りを見渡すも、自分しか乗っていなかった。よかった、と思いつつ、やはり宮島行きに乗ったようなのだが、居眠りしても続く長い道のり、人気のなさに、ちょっと今日はこの辺にしておこうかと冒険心にブレーキがかかった。

 急いで市内電車を降りると、そこは川にかかった橋の上。海まですぐ目と鼻の先だった。けれど海辺に人のいない十一月の海は波がざわついていて、遠目から見るにはキラキラと輝いて美しかった。それなら山の方に向けて歩いてみたほうが面白そうだと沙里は振り返り歩き始めた。白い子猫がふらりと現れて、坂道を立ち並ぶ木々の木陰を渡るように、先へ先へと行く。少し長めなセーターの袖を揺らし、ロングスカートをふわりと浮かせながら、彼女もまた軽快に坂道を進んでいく。

 すると先を行く白い子猫が、とある二階建ての民家のような建物へ入っていくのを見つけた。どうやらカフェのようで、建物の前には木製の看板が置いてある。しかしそれはあまりにさり気なく小さなもので、子猫を眼で追いかけていなければ見つけられないものだった。

 カフェの名は「chaton(シャトン)」  

 玩具の家みたいな雰囲気のそれは、白い壁が波打つように塗られており、息づく風の流れを感じさせ、赤い屋根は三角形にポコポコとがっていて、レンガ造りの煙突まである。白く長い石造りの真っ直ぐな階段は二階へ向けて伸びていた。その先に、白い木でできた大きな扉が見える。沙里からしてみれば大きすぎるほど。

――この扉をあけて何が出てくるんだ?

 扉の大きさは二メーター以上はある。猫が入った扉下の小窓でも私にはちょうどいいんじゃないだろうか? とさえ思った。

 階段を登ってみようか? 

 沙里が躊躇していると、その大きな扉がゆっくりと開いた。

 外側に開く扉に押されるように後退りする沙里の目の前に、毛玉いっぱいの赤と黄色のチェック柄セーターというのがなんともいえない、場違いな休日のオヤジが立っている。 少なくとも何かを期待させる夢のある建物から、予想外に平凡な人が出て来た事にあっけに取られた沙里だったが、そのオヤジの顔をマジマジと見つめて驚きの声を上げてしまった!! そのオヤジこそ、昨日の今日で、似ても似つかない風貌の滝だったのだ。

「滝さんなんでいるんですか!? セーターだし……」

 階段を降りゆく滝もまた、何だこのお姉ちゃん、なに話しかけて来てんだ?という表情で怪訝にも無視しようとしていたのだが、すれ違う間際、滝も同じく沙里に気づき、いつものスーツ姿とはあまりの違いに二度見する驚き様だった。

「驚いたあ、いつものお姉ちゃんか。ぜんぜん違うね、スーツじゃないし」

 沙里はサングラスを急いで外すと、短く切ろうか悩んでいた、半端に肩まで伸びた髪をかき上げる。帽子でもかぶってくればよかったと後悔しながら……。

しばしの沈黙の中、滝が焦りながら言った。

「昨日はゴメンな。あのバカが写真なんか撮っちゃって」

「え? 写真? 昨日」

「ああ、寝てたもんな……。ここ、あいつの撮った写真飾ってあるんだよ 」

「あいつって……?」

「悟、昨日寝顔撮った」

「え! ちょっと寝顔ってなんですか!? 撮られたんですか私! もしかして飾られちゃったりしてます!?」

 滝の説明も聞かず沙里は慌てて店の中へ入っていく。昨晩の、自分の知らない醜態の記憶が、今朝からの事とも何となく説明がつき、恥ずかしくて仕方がなかった。

 店に入ると目の前に大きなテーブルが一つ。大して広くもない店内に、一つだけ、ドカンと 置いてある。その回りに椅子があり、適当に座って、という感じ。だが今の沙里からしてみればこの大きなテーブルは邪魔なだけだった。

 白い壁にはサイズの違う写真が大少様々な特色あるフレームに入れられ飾られている。その一枚一枚を急いで見て回ったが、自分の写真はどうやら…… 無い。

「良かった~」

 カフェ店主、河村 美幸(かわむらみゆき)は大きな瓶底丸メガネでその様子をじっと見ていた。そしてそのまま表情も変えず黙って店の奥へと消えていった。

 滝は沙里をテーブルに着かせ、昨日何があったかを説明し始めた。

 美幸はというと、店の奥でこちらを気にせずアッサムを丁寧に入れている。アッサムといえば、甘めのミルクティーにして飲むのが定番である、でもミルクも砂糖も入れない。あくまで、ストレートである。

「そういうことだったんですね…… 。人前でいびきとか……」

「まあ、初めてじゃないわけでね」

「私、それ初めてじゃないんですか!?」

 沙里が慌てていると、美幸は両手で重たそうに、カチャカチャと小刻みに音を立てながら、危なげに大きめのガラスポットを持ってきた。中にはポットに波なみと、目一杯入れられたアッサム。一滴もこぼれていないのが不思議なくらいだった。 沙里は少々苦い顔をしつつ、アッサムを一口。 濃い味と風味が強烈にぼやけた頭を冴え渡らせた。

「濃ゆ……。甘くも、あれ? 」

 沙里が飲む姿を無表情で見ていた美幸。若干口角が上がったので、沙里の反応には満足なようだ。 

「あの、で、なんで滝さんはここにいるんですか?」

 それはこちらも聞きたいんだよ!と滝は思いつつ、沙里に話を続ける。

「ここはあれだ、悟が学生の頃から通ってて、駆け出しの頃の写真が殆どあるんだよ。作風というか、ここ数年随分写真の質感が変わってるんだ。一枚一枚、ぜんぜん違うんだ。たまに写真を見がてら、紅茶を飲みにくる。前にこの店の事は話したと思うけど」

 沙里は思い出した。滝のバーに、そういえばカフェのカードが置いてあり、丘の上にある景色のいいカフェなら一度行って見たいという会話をした事を。沙里の足が自然と街を見下ろせるような高い場所を目指し坂道を上がって行くのは、そもそもそういう場所をこれまでも探し求めていたからだ。意外なところで滝に導かれてしまっていたようなものだと沙里は思った。窓の外の景色を見ながら居心地のいい場所を見つけた事を心の中でかなり喜んでいた沙里。

 その傍で、カフェの店主美幸は、壁に飾られた写真を眺めていた。その姿は沙里から見ると、表情がほんの少し豊かになっているのではないか、と感じられた。それも一枚一枚思い入れがよほど強いのか、悲しげな時、嬉しげな時、ほんの少しの変化だが、それら一枚一枚に何か思い出でもあるように見えたのだ。

 滝は話を続けた。

「悟はその時の感情を色濃く一枚の写真に投影できる。それだけに、その写真を撮影した頃の思いが一枚に出てしまう。美幸さんはその思いが色濃く出た写真を買取り、ここに飾ってくれてるんだよ。ある意味では、一番最初の悟のファンかな」

 沙里は壁にかけられた写真の中の一枚、自分の座った場所からまっすぐ先に飾られた写真に目を奪われた。 丘の上から広島の街を見下ろした。一見すると他愛のない風景写真だが、距離感。街をただ遠目に見ているわけではなく、そこを行き交う人の流れ、車、電車、ありとあらゆる物がその中で活き活きと生活している空気があった。

「まだ他にも、飾られてない写真あるんですか?」

 美幸は初めて、ゆっくり、ニコリ、と頷いた。そして、滝が続けた。 

「学生の頃に一度賞を受賞して、たいして大きな賞じゃなかったけど、新聞で取り上げられて、その直後はそこそこ撮影依頼も来てた。けど、あいつ撮れないんだな、自分の好きなものしか。それ意外はまあ、並というか、ね。俺らカメラマンは仕事となればクライアントの思いを汲み取って、それを表現するフィルターになる必要がある。それがあいつにはできなかった。」

 沙里と美幸、滝をじっと見つめている。

「なに? 俺なんか、変なこと言った?」

 美幸の口がわずかに、なにか言いだそうとした時、沙里が先に言った。

「滝さん、バーテンですよね。」


沈黙の後……。


「あ、そうです。俺はバーテンです。はい。」

 美幸、沙里を無表情で見つめている。一瞬居心地の悪さが漂った。



 夕暮れ時、空っぽになった大きめのガラスポットに、子猫が入り込もうといたずらをしている。窓から差し込む光に、まあるい日食のようなリング影が一つ。子猫がコロンと転がって、カフェの看板と同じ絵面になった。


 沙里は帰路、坂道を下りながら見える、夕暮れの街の風景に見とれていた。


 暮れゆく太陽が海へ真っ直ぐなオレンジ色のラインを引いて、薄くひらり輝いている波間に反射して、影になった街に一つ、また一つと電気がついていき、街灯が一斉に光る。夜の境目の不思議な時間を堪能していた。

 悟という人は、こういう瞬間を見逃さず、あんなに美しい、一目で吸い込まれるような写真を撮影したのだ。そう思うと、まだまだあるであろう写真たちのことが気になった。

 ほかにもあるなら、ぜひ、もっともっと見てみたいと。
 そしてそんな人が、なぜ私の寝顔を撮りたいと思ったのか?

 顔も覚えていないのに、沙里は少し、悟のことが気になり始めていた。




PR代理店 commun(コモン)

 沙里の勤務先はフランスに本拠地がある外資系広告代理店。主にPRイベントを仕掛けるのが仕事。食品、アパレルを中心に、国内外のあらゆる依頼に柔軟に答えている。

 communは国内に支社展開をしているというわけではなく、一つのプロジェクト単位で、地方であれなんであれ「日本」というくくりの中でスタッフをプロジェクトチームとして派遣する。その感覚は「世界の中の”日本”のクライアントのために」である。

 一度任せてしまえばプロジェクト立案から起動までレスポンスは非常に早く、高額なコスト条件をこなせるクライアント意外の仕事は請け負わないという、ある意味でシビア、ある意味では理にかなった強気の事業展開をしていた。そのためにcommunの利益率は非常に高く、上場後の評判も非常に高い。

 しかし、日本の競合代理店からすればまさしく黒船であった。

 沙里は東京本社勤務だが、クライアントである渡健一(わたりけんいち)の指名と、入社当時から目をかけてくれた上司、竹本真司の広島勤務が重なり、三年間という約束で広島に転勤となっていた。沙里の上司である竹本にしてみれば、海外留学経験もあり、フランス語、英語が堪能で仕事が出来る彼女をチーフとして広島へ連れてくる事は何かと都合がよかったのだ。広島という世界的な目線で見ても、平和都市として魅力あるこの土地の市場を把握することが竹本にとって最大の目的。そして、竹本の仕掛けようとしていることと、渡の企業姿勢は広島の地から世界に向けた新たな海練を生み出そうとしていた。

 沙里を指名したクライアント、渡は、全国展開するウェディング・プロデュース会社「Le véritable amour(ル・ヴェリタ・ムール)」の代表取締役。

 彼こそ気取った伊達男というイメージにハマる男で、アルマーニ、パネライ、AUDI R8コンバーチブルを ”着こなし” 少しこれまでの日本人青年と違い気持ち悪いくらい成功した三十歳だった。彼はこの若さで東京都内ウェディング業界の常識をひっくり返していたのだった。

 彼のやり方はこうだ。「真実の愛を賛美してもらう、それこそが結婚式の本当の姿。あなたが招待したい人だけを招き、その人と過ごす時間に最大限の投資をする」というもの。 極端な話だが、親族はもちろん、無理をして会社の同僚を招き当たり前の披露宴をやるのではない。最高の思い出を残すためにお金をかける事、それ自体がコンセプトの中核にあった。そしてそのために従来の日本人的な感覚、付き合い、と言うものを披露宴から排除してしまったのだ。渡の考える披露宴はまさしく世界的なショービジネスだった。

 結婚する二人が、好きなアーティストのミュージックビデオに出演する。

これを実現するために、渡がとった行動はまずファンクラブを騙す事。渡はアーティストのファンサイト内で架空のウェディング・キャンペーンをはった。募集要項は1年以上先に結婚を考えているカップルである事。募る事自体は話題性があるので結婚予定のカップルは具体的な日取りが決まっていなくても応募してきた。そう、恋人どうしであればこのキャンペーンには応募できる事が最大の嘘である。

 大きな嘘はついても構わない。あとでいくらでも修正がきく。

 さて、ここからが渡の手腕だ。アーティストからしてみれば未だこの世にない半年後の新曲にこれで予約が入る。次に楽曲はすでに決定している二人のために書き下ろされるので、アーティストからすればイメージも固めやすく楽曲の制作はしやすい。

 渡の会社からしてみれば1年後に結婚を考えているカップルに対する次案件獲得が見込め、自社企業のイメージPRも同時に行える。そしてさらに、この新曲PRを成功させることで、楽曲の売上から30%を渡の企業が受け取るという契約。つまり、これにより新郎新婦の負担額は最小額で済むわけだ。

 さらにはウェディングに関するSNSを開設。FacebookやTwitterも巻き込み情報を拡散させた。恋人同士である事、それだけで結婚をイメージさせ、見知らぬ者同士が、結婚というエンタテイメントを楽しみ合うSNS。あのカップルはこんな準備をしていたという披露宴までの記録が随時投稿されて来るだけでなく、利用者同士が互いにアドバイスをしあったり、なによりマリッジブルーになった時など癒し合い、支え合うというコミュニティーが生まれるなどした。 それに、やっている事が普通ではないんだから、夢をこの中で思い切り広げてもらえば、対応できる手法を運営側である程度コントロールできるだけでなく、いざ事が進んでもすぐに動きやすい。しかも彼らはみな1年後に結婚を考えているレベル。運営側が数ヶ月先に控えた披露宴に振り回される事もないのだ。

 さらには、登録は直接会社を訪れないとできない仕組みになっており、運営側で直接面談後、個人情報をしっかりと把握した上で、審査を経て利用が開始される敷居の高さで、これを通過する事、それ事態が結納に変わる真実の愛の証明とさえ巷では騒がれるようになっていった。厳重な顧客管理体制により、別れたり、離婚したカップルはこのSNSには参加資格がなくなるため、結婚につきまとうネガティブな話は厳重に監視されていた。 その厳重さは逆説的に、ここまできて、ここに登録してまで別れる事は恥以外の何物でもないという空気を利用者全体に作り出す事にも成功していたのだった。 

 渡の感覚では、結婚をしたと言う事実を報告する場が披露宴であり、世界中から賞賛が届く方法を提供する事が最大の祝福で、このSNSを軸に、結婚のために行ったイベントを希望次第でFacebookやTwitter、YoutubeといったSNSに拡散しいわゆるSNS上のフォロワー、友達に対する祝福を募る事に成功していた。 それに関しても一方的な拡散ではなく、Twitterであれば特定のユーザーを選んでのDM(ダイレクトメール)送信。そこからのリンク先が閲覧用期間限定ページという徹底した配慮と、アイコン画像を使った画像や動画に対する顔ばれ防止のちょっとした加工など、それはそれは、これからの時代に即したサービスを提供していた。

 まるで企業の新商品発表会のごとく、ときにはTVのバラエティ番組のごとくスケールでこれらの事が展開される。当然のことながら費用はかかるが、それを支払う人がいる。つまり、ご祝儀でどうにかしようという考え方がはなから無く、掛けるべく費用をかけて、最高の思い出を作ろうと言う基本コンセプトが、うまく大衆に受け入れられる仕組みを彼は作り出してしまっていた。 

 徹底して面白い状況を提供するというのが、渡の考え方であり成功の最大の理由だった。

 裏を返せば、これにより投資金をカップルに出させ、そのレバレッジで自社が大儲けを出来るように仕組んでいるのだから恐ろしい話だが、基本理念が詐欺ではないだけに、まさにグレーゾーンの新たなるビジネスだった。

 そしてこの男、大金のかかる派手なことばかりではなく、予算十万円しか無いと言うようなカップルのためにも奔走する。ドレスにタキシードは着れなくても、最高の一枚の写真を取るすべはないものか? 両家が最高の食事をし最高の一日を十万円で提供できないか? 

 こういう事にも使命感に燃えて彼は走るのだ。そういった姿勢は当然のごとく、口コミが広がる結果を招き、メディアも不況下に現れた、幸せを招く天使のごとく取り上げた。

 渡は言う「財布を持たずに相談に来て下さい」と。

 それはそうだ、顧客はSNSで囲い込むのだから、話し合う時間がたとえ長かろうと、お金なんて必要ないのだから。

 しかし、彼の目的は実はここに無かった。ウェディングというものには無かったのだ。

 そしてその事を、今はまだ誰も知らなかった。



 広島市内にあるホテルの地下駐車場に愛車を止めた渡は、脇目もふらずエレベーターで10Fへ。ホテルの商用エリアを間借りしたcommunのオフィスへ向かった。

 渡は会議室へ通されると、担当である沙里に切り出した。

「腕のいいスチール・カメラマンがほしい。無名のカメラマンをうちの宣伝力とあわせて一躍スターに仕立てあげたい。その代わり、初回の撮影料金は1組のカップルに対して10万円のみ。無論こちらの取り分はいらない。」

 渡は必要なことだけ話すとコーヒーに砂糖とミルクを入れ入念にかき回しながら、沙里を見つめ返答を待っていた。

「問題はないと思うんです……けど、それに見合う能力と、野心を持ったカメラマンがいるかどうか。ここは地方なわけですし……」

 渡は手を止めた。

「地方だからこそいるはずなんだ。東京に行出るチャンスがなかった者、出戻りのもの。素人でもいい、埋もれた人材がかならずいるはずだ。」

 沙里は前髪をかき上げるとすぐに反応した。

「広島に拠点を移されて、これが初の仕事なんですよ? これまで、東京で活躍されてきた余力が少なからずつづいてたかもしれません。でもこれからは、いわば未開の地というか、知らない街で仕事をはじめていくわけで、中央からスター候補を連れ帰るほうが無難なんじゃないかなぁと……」

 渡はコーヒーをゆっくりと飲み、空を見つめ、ため息を付いた

「未開の地で新しいことをはじめるのは当然の事。この街を熟知したスタッフが必要になる。だからこそ、東京から私は誰一人スタッフを連れて来なかった。広島本社と名乗りながら、実在は私のみ。後はあなたがただ。この街を知らないのは私達だけでいいんです。それだからこそ、私たちはこの街に期待できる。まだ見ぬ何かがあるんじゃないのかと、この街全体に期待できる。それこそが、未来を切り開く力になる。これはいわば、冒険です。」

 渡は立ち上がると会話を切り上げ立ち去りぎわに。

「あなたはこの街に夢を抱けませんか?」



 滝のバーで、胸とあごを突き出して沙里は上から目線の渡を真似している。ちょっと振り返りぎみの姿を何度もしつこく繰り返しているのだが、表情が繰り返すたびに滑稽にひどくなっていく。

「こうですよ、こう! この街にうんたらかんたら! とか言っちゃうの!」

 酔っ払う沙里を白い目で見ながら他のお客が帰っていく…….。滝は酔っ払った沙里のことよりも他のお客の対応に必至。もうどうでもいいやこの娘と言わんばかりに沙里を押しのけカウンターを飛び出していった。

「タイミングの悪い……」

 滝がそうこぼす、と、入り口には帰る客と入れ替わりに悟がやってきた。店に入ると伏せ目がちにカウンター奥、ライトも当たらないような薄暗いところに悟は座る。

 滝は騒いでいた沙里がキョトンとしつつカウンターの席に腰掛けたのを見守りながらふと気づいた。「そういえば沙里ちゃん、まだ悟の顔知らないんだ」であれば、このままそっとしておいた方がいい。こんな日に再会するならうまく話をそらしてしまおう。

「マスター、バージン・ブリーズ」

 悟はマルボロを口に咥えると、iPhoneの画面を見つめていた。

 滝がすました顔でロンググラスに氷をいれる。クランベリージュースのボトルを出して、氷をステアして、固まった。悟はその様子を見ている。沙里も聞いた事のないお酒の名前に興味津々でカウンターの中を覗き込んでいる。沙里の視線にやりづらそうに、滝が苦笑いを浮かべながら呟いた。

「そんなに見つめなくてもいいじゃない……」

 悟がふと滝の方へ目を向けると、どうも作り方がおかしい。

「シェイク、するんじゃないっけ?」

 その声で、沙里はじめて悟の方を向いた。片隅のシルエットからタバコの煙が上がる。

 滝は慌ててグラスの氷を捨てるとそそくさとシェイカーを取り出した。

「グラスを冷やしてたんだよ。あれだ、どうせ長居するんだろうから、今日はロングにしてやるから。」

 iPhoneの画面の明かりが悟の顔を浮き上がらせる。悟がじっと見つめるそれが何なのか?沙里は気になった。お酒にも詳しい、顔もそんなに悪くない。スタイルも長身でそこそこいい。 

 滝はシェイカーを振りながら心の中で「やめなさい、沙里ちゃんやめなさい。あんまり興味持ちなさんな!」と思えば思うほどにシェイカーを大きく、大きく振りまくった。そのオーバーアクションにまた二人が滝をじっとみつめた。

「そんなに見つめなくてもいいじゃないか……」

 滝がロンググラスにカクテルを注ぐ。沙里はカクテルに目を奪われたまま、悟に差し出す手を追う。が、悟はすぐにカクテルを飲もうとしない。

 気になる!気になって仕方がない、このカクテルどんな味なの? 沙里はとうとう悟に声をかけてしまった。

「 それ、飲まないんですか?」

滝はいつもより即行動に出る沙里の酔いっぷりに驚いて、流しにシェイカーを落としてしまった。その音に悟は顔をあげる。沙里が近づいていく、よく見ると悟はイヤホンをしていたのだが、今の音で差し出されたカクテルに気づいたようだ。iPhoneをカウンターに置き、イヤホンを外す。沙里は悟の隣に座った。

「あの、そのお酒……」

悟は不思議そうな表情で沙里に答える。

「え、あ、まあ、これお酒じゃないけえ。」

けれど目を合わそうとはしない。酔いのせいもあるが、普段とは違い積極的になっている沙里。悟はそういう女性が少し苦手だった。

すかさず滝が割って入りカクテルの説明でごまかそうとした、その時。 

「え!盗撮の人!!」

 カウンターに置かれたiPhoneの画面は沙里の寝顔を鮮明に表示している。

「ちょっと、何気どってんのよ!? こないだ写真撮ったのあんた? 説明しなさいよ!」

 悟は驚くと同時にはじめてきちんと沙里の顔を見た。あの時のあの娘がいる。悟は嬉しくて、じっとみつめたまま湧き上がる喜びで表情が自然と緩んでいく。 沙里からすれば本当は腹立たしいはずなのに、写真を自慢気に見せる悟の笑顔が無邪気な子供のようで愛くるしく見えてしまった。怒っていた沙里はその表情に押し切られ、困りながらも少しだけ悟につられて笑えてきた。

 一瞬だった。沙里の悟を気になっていた気持ちと、悟の登場によってペースをすべて持っていかれるこの感じ。二人の波長がいい具合に絡み合う。そこから会話は思いの外に弾んでいった。

「こないだ話ができんかったけ、あんたあ好きな酒飲みんさい。お詫びにわしがおごるけえ。」 

「わし?」

 髪を振り乱していた酔っぱらいの沙里は髪を手櫛で急いで直した。まだ不慣れな広島弁が一つでも出てくると、怒られた!と言う感じがしてしかたがないのだ。

 「じゃけえ、わしがおごるけえ。飲みんさいや。」

 悟のそっけない言い方に怒られた、と思い固まっている沙里。と、滝が冷静に翻訳。

 「ですから、僕が一杯おごりますので、気にせず飲んでくださいよ。と。これは普通ね、怒ってないから、大丈夫だから。」

 沙里は、半泣きになりながら。

 「なんか、かなり恥ずかしくないですか? わたし」

 その動揺っぷりに、悟は思わず吹き出して、

 「なんか面白いねえ、あんたぁ。じゃあ、乾杯から。こないだのお詫びもかねて。」

 滝が沙里に差し出したカクテルはシーブリーズ。滝の目には息の合うカップルに見えていたのだろう。80年代のディスコシーンのような古臭さはあるのだが

 それから何時間話していたのか、沙里は自分の仕事の事を延々と語り続けていた。クライアントや上司のものまねをしながら。悟と滝はそれを笑いながらずっと聞いていた。



 そしていつしか朝が来る。沙里と悟は駅へと向かい、ずいぶんと長い距離をふらふらと酔い冷ませながら歩いていた。沙里の自宅方向と、悟が利用する西広島駅が同じ方向だったのだ。 あれ程お酒が入り弾んでいた会話も、夜明け前の冷たい空気が少しずつ気恥ずかしさを取り戻させ、沙里の表情をこわばらせていた。だって、やっぱりちょっとはしたないじゃないか……

 市内電車もまだ走っていない。タクシーに乗るような距離でも無い。二人は無言のまま歩いていた。

 西広島駅の手前、だいぶ海に近くなった事で広がったデルタの川幅にかかる、ひときわ大きな橋がかかっている。新己斐橋(しんこいばし)その上を悟が少し先、距離を開けながら歩く。橋の歩道は柵が低く、時折強めの風が沙里の髪を吹き上げていた。朝陽が登りはじめ、一筋の光線がキラキラと沙里の足元へと差し込んできた。その光は沙里の全身を包み込んでいく。その強い光を手で覆い隠しながら、沙里は橋の中央で歩くのをやめた。

 朝陽は夕焼けのそれより数倍強い力を放ち、世界が強いオレンジに染まる。空は澄んだ空気とともに真っ青に広がっているのに、そのオレンジの光は海から浸透していくように、地上の世界を暖かく包み込んでいく。

 沙里は朝の空気を吸い込んでみた。鼻の先から頭の中がスッキリと澄み渡り、体は何かを始めなきゃいけないという気持ちで満たされるのか、かかとが浮き上がる勢いで自然と大きく背筋が伸びた。



 早朝のカフェchaton(シャトン)。看板すらまだ出ていない店内で、コーヒーを飲む滝と美幸。

「これで一歩、あいつも踏み出してくれるのかな。もうそろそろ、忘れてもいい頃だろうし……」

 美幸は壁にかけられた写真を黙って見つめたままだった。

「またあいつが写真を撮ったよ。酒も飲まずに会話も楽しんでた……」



 シャッターの音がした。沙里が振り返ると、悟が一眼レフで沙里を捉えていた。ゆっくりとファインダーから悟が顔をのぞかせる。朝陽がその真剣な眼差しに差し込んでいく。

「君を、ちゃんと、撮らしてくれんか? 」

 全身の新鋭が研ぎ澄まされる朝の空気の中で、沙里が返す言葉を探していると、悟は笑顔でまた一枚シャッターを切った。そしてその音は、沙里の心に響き渡った。

「広島弁、ホンマにまだわからんのじゃね。驚いた顔が面白いわ。」 

 照れて笑う沙里。笑顔で返す悟。ほんの数十分間の出来事。沙里にとっては一生を変える出来事が、その朝、起きた。

 悟にとっては、再起の一言が出た瞬間でもあった。





 二千年
 その冬のクリスマス、雪など降らない日本のイブに、悟は自分が吐く息の白さを、今でも鮮明に覚えていた。悟はその日、朝が来るまで、街中の飲み屋という飲み屋を、たった一人の女を探しさまよい続けていた。探していた女の名は、楓(かえで)。本当の名など知らない。

 自分の愛していた存在が死んでしまう。その事を受け入れられないまま。朝など来てほしくないと、自分の無力さに苛まれながら、悟は歩き続けていた。

 楓。彼女が語っていた事を真実とするなら。彼女はこの世に存在などしていない、儚い華、そのものだったはずだ。けれど、悟はその話のすべてを信じていたわけではない。自身もアーティスティックな感覚を持つ者として、自分の経歴、人生を、それこそ時に華やかに、時に蔑みながら、人の感情を揺さぶるように語る事も少なくないからだ。楓が話していた事は、そのすべてをフィクションとする方がつじつまが合うほど劇的だった。

 彼女は、戸籍が無いという。出会った当時19歳。彼女は実家から逃げてきたという話だった。体には、腹部に刺された傷跡もあった。家族によるDVで実家を飛び出した楓は、これまで年齢を偽り自分が身を持って出来る事のすべてをこの世に捧げ生き抜いてきたという話だった。そのせいか、話す内容も他の同年代の女性とは確かに感覚的なずれがあった。悟がどう話を合わせようと繕おうと、彼女の語る内容はすべてが、そのさらに上を行き、悟の心を見事に翻弄した。けれど、楓の語る話は全てが真実かどうか? そう、誰にもわからなかった。

 出会いのきっかけは運命と言えば聞こえよく、くだらない出来事といえばさめた表現かもしれない。大学を出たての悟は、ちょっとしたフォトコンテストでの受賞からまもなく、若くして期待され、その腕を買われて多数の仕事が望む望まざると舞い込み、それをこなしている自分への過信が自信過剰へと繋がって、ストレスフルな日常の中、夜遊びを覚え、酒を飲む事に時間をより多く割くような、昼と夜が入れ替わる荒んだ毎日の中。いつものごとく酔いに任せて、泥酔状態で見知らぬ店へと飛び込んだ事がきっかけだった。

 「なんだよ!もっとキツイ酒無いのかよ!金ならないくらでも持ってんだ。そこらのガキと一緒にすんなよ!」

 いつになく荒れていた悟。その店が普通のラウンジだと思い込んでいたが、深夜も2時を回って客を取る店が多少なりともまともなわけも無い。店内には悟一人にキャストが3人。黒服が5人はおり、いくら若造と言えど、ただ酔っぱらいました。ですまされる状況ではなかった。そしてその状況に、マルボロに火をつけ悟を冷笑する楓の姿があった。黒。スリットが切れ込んだロングスカートから長い脚が弧を描き組まれる。ゆっくりと悟に送る視線とともに、タバコの煙を吐き捨てた。

「あんた馬鹿じゃないの?」

 他の女性はまた始まったというあきれ顔。黒服は問いえばニヤリとほくそ笑んだ。

 「どういう意味で言うとんのら?」

 怖い者など無い悟は状況も考えずに楓に食って掛かった。

 「ここ、ぼったくり。あんたみたいなガキが暴れてくれりゃあ文句無いわけ。親でも何でも巻き込んで、この店でふざけた事言ってりゃ身ぐるみ剥ぐどころじゃすまないよ? だいたいお前さあ、偉そうに店はいるなり全員にビールおごったでしょ。これでもう20万だからね。」

 他のキャストの女の子はすぐさま止めに入った。ボッタクリだの何だのと、店側から明かしたんじゃあ商売にならない。というより警察に駆け込まれれば終わりだ。店内のBGMが一気にボリュームをあげてきた。楓の暴言をかき消さんばかりに。黒服は悟に詰め寄ると必死で機嫌を取ろうとする。

 「今のは冗談!冗談じゃけえゆっくりのんでってくれんさい。ぽっきり!いうたとおり1万あったら朝まで飲ますけえ」

 他の黒服は二人掛かりで楓の腕を掴み店の奥へ連れて行こうとしたその時、 悟は指差しながら立ち上がり叫んだ。

 「またんかいおまえ! おまえじゃあそこの女!」

 店中が凍り付いた。楓は悟を睨みつけた。悟に詰め寄った黒服も黙ってはいない。悟の顔面ギリギリにメンチを切ってくる。しかし悟はここでとんでもない行動に出たのだ。

 「お前らぼったくりやろ。たかだか20万てなあ、その程度ででかいつらすんなよ!」

 悟は懐から帯付きのピン札で100万ほど取り出すと、床に叩き付けた。

 「その女俺につけて、朝まで飲んでも文句無いな。必要なら、もう一束やろかい!」

 悟はその瞬間200万もの大金をその場で放り投げてしまったのだ。店内の状況は、完全に変わった。

 明け方、名も知れぬ店の前で、全店員がお辞儀でお見送りする中、悟と楓は夜明けの街を腕組んで颯爽と歩いていた。今にして思えばとてつもなく馬鹿げた出会の朝。なんのコントだ?と思わずにいられないくだらない出来事が現実に起きてしまったのだった。

 悟の日常を楓と別れたあの日から支配していた思いがあった。

 人を傷つけると、二度と仲直りはできない。

 恋をして行く中で人は何かを学び、何かを捨てる。若い頃、これが一番理解できないことであり、失ってなおその事実を受け入れ難く途方に暮れる。立ち直るということは過去を捨てるということなのか、受け入れるとはどういうことなのか? 忘れてしまうこと、それ自体が罪のように思えて、何度も悟は自問自答していた。答えを自分の中で生み出すことができるのか?それすらわからないまま、何年もの月日が流れていった。

 そして、悟は何も変わらない自分に気づいてもいた。自分自身の弱点と言おうか、性格だから仕方がないと割り切ってしまおうか? そのもやもやとした思いがたまらなく悔しく、苛立っていた。

 あの日、自分でもあまりに馬鹿げていると思う過ちと共に、楓と出会い、そこからのほんの数ヶ月の中で、愛する人を失うということを痛烈に思い知らされ、また、自分の無力さを覚えた。

 悟の頬を伝う涙を猫が舐める。

 普通の猫はこんな事しないだろう。悟の家に住み着いたこの名もなきサビ猫は悟が泣き寝入っていると必ずこれをしてくれる。 そして、悟が目を覚ますとベットから飛び降り、少し距離をとる。じっと悟を見つめると、少しずつ離れてゆき、悟が目をこすりながらその猫を見る時には、いつも窓際に座って悟を見ていた。

「また来てたのか。」

 悟が起き上がりサビ猫に近づくと、決まって窓の隙間から逃げて行く。

「いつまでもなつかないやつ。」

 悟は窓を少しだけあけておく、いつ気まぐれな”彼女”が来てもいいように。

 悟の自宅兼作業場はアナログな時代のまま時が止まっていた。10畳ほどの今時珍しい和室の中に、Wベットが一つに電気炬燵がテーブル代わりに年中置いてある。他には壁際に背の低い3段ラックが2つだけで、冷蔵庫もガスコンロもない、生活感のあまりにない部屋。その中に一眼レフ。デジタルではなくフィルム式が2台並べて置いてあり、大雑把に、カメラボディ、レンズ、アクセサリーと分けてあるだけ。もう一つのラックは衣装ケースだ。

 和室に洋家具を持ち込んだために、畳もその年月分しっかりと傷んでしまい、ベットの足は畳に沈み込んでしまっている。茶褐色に色を変えた部屋に陽射しが差し込みはじめる。テーブルの上の缶コーヒーを左手で振りながら、悟は深いため息をつき、そっと畳に目を落とす……

 真っ青な畳の色と香りが、悟の脳裏に蘇っていく。まだ、何も忘れてなどいない自分と向き合う一日が、今日もまた始まった。

 不動産屋は2人で生活を始めるにはもってこいの間取りだと言った。悟にとって初めての1人暮らしと同時に楓とともに2人暮らし。部屋を借りる事のめんどくささも初体験で、二人暮らしにどれほどのスペースが必要なのかも分からないまま、ただはしゃぐ楓の言うがままに、なんとなく、この部屋に落ち着いたのだった。楓は夜はいない。悟はそんな楓に合わせる事も出来る身軽な生活。けれどあの日ばらまいたお金に関しては、今となってはあまりに馬鹿な使い方をしたものだと楓と2人、よくベットで笑い合っていた。 

「私のために使ってくれた賞金」

「使う当ての無かったお金じゃし、べつにええよ」

 そう、悟は自分が写真で食べられるようになったきっかけのコンテスト賞金をあの日持ち歩いていたのだった。その後に舞い込んだ仕事を次々こなして得た報酬もすべて、実は全額持ち歩いていたのだった。 忙しくなる日々と裏腹に、何も得ている実感がわかなかった悟は、ありったけのお金を持ち歩いて、ただ何かを求めてさまよっていたというわけだ。





「あと一ヶ月待ってくれんじゃろうか!」

 滝に頭を下げる悟の姿があった。店のツケが払いきれない今の状況はあの頃とは大違いだ。滝も別段責めもしない。いつものことだからだ。それよりも悟がまた撮りたいなにかと出会えたことの方がなにより嬉しかったから、少しくらい応援してやろうとは思っていたから。

「まあ、いいけどさ、沙里ちゃん撮りたいんならお前ももう少し稼ぎ良くしないとどうしようもないだろう。自分が好きなもの撮って作品にしたいなら金もいる。受け仕事でも何でも、そろそろ本気で探さねえといけないんじゃないのか。」

 滝はウィンクの出来損ない的なシワ寄せた渋い表情で悟を諭す。しかし今すぐこれと言って営業に回れそうな企業もそうはない。そんな時悟が頼ってしまう相手は島田橙子(しまだとうこ)ただ一人だった。彼女とは10歳ほど歳が違う。そして悟の元カノの一人だったりする。

橙子はギャラリーの経営者で界隈では有名な存在。悟の写真にいち早く目をつけ個展を開催させるなどしたのも彼女。そしてなにより、悟が世間的にみれば堕落して行き、人間的にみれば成長しつつあることを誰よりそばで見守ってきた人物でもある。 出会って間もない頃。橙子は悟を可愛い青年だと思った。当時20歳の悟は、ルックスというより清潔感、肌の色艶の良さ、育ちがあきらかにいいであろう純真そうな笑顔が母性本能をくすぐるところがあった。 猛暑の真夏ど真ん中。市内中心部へ向けてまっすぐに伸びる太田川のほとり、寺町にある川沿いの並木道。誰もが汗だくでうだるような暑さの中で、悟は木陰から空を見上げ、差し込む光を浴びてなびく葵葉の風に流れる動きを捉えようと必死でシャッターを切っていた。その汗もまた煌き必死で何かをつかもうとしている全身からあふれる情熱的な姿に魅了されるものがあった。そんな写真を撮る悟に声をかけたのは橙子の方だった。

「何が撮れるんですか? どれも同じ木ばかりなのに。」

 この並木道の木々は川へむけてではなく車道側に向けて伸びている。まるで並木のトンネルのような感じになり、道筋だけはそこそこ日除けにもなる。背の高い悟が木々の枝葉に手が届かんばかりの勢いで写真を撮っている姿ははたから見れば異様であり、道行く人々からすればとても邪魔な存在。そんな迷惑な悟をキラキラと輝いて見えてしまった橙子もこれどこか同じ感性を持っていたのだろうか?

橙子の問いに悟はこう返した。

「面白くてしょうがないんですよ! 同じ瞬間が一度としてないっていうのを、風でなびく葉の動きを見てると感じられるから」

 その言葉を聞いて橙子はハッとした。この人は陽射しでも、木でも、葉でもなく、風の動き、言うなれば目には見えない風、そのものを撮影しようとしているんだと。 これぞ運命の出会いというか、同じ目線で世界が見れた橙子は急速に悟に惹かれて行くのだった。

 冷えた缶コーヒーを悟に手渡すと、並木道沿いにあるベンチに二人は座った。

 これがまた面白いことにぎこちない事は微塵もなく会話がスタートしてしまった。まるで長年の知り合いのように。

「僕はただ自分の目で見たものを取るというより、感じたことを撮りたいんです。なんでこのアングルかと言われれば全部自信をもって人に話せるだけの理由がある。でもそれも写真で語らないといけないところなんでしょうし、そういうのわかってくれる人も少ないですから。」

 少し悟の表情が曇った。橙子の頭の中は即座に自分にできることはないかという思いでいっぱいになった。もっと笑顔が見たい。こんな曇った顔も、できれば愚痴も聞きたくない。

「私もっと見たいですあなたの写真。もっと、もっと見たいです。」

「本も何も出しとらんですから。インターネットっていうのも、よおわからんし、ホームページっちゅうのも、ないんです。」

 悟は気弱な時も広島弁が出る。唯一これだけは自信をもって言える!という時しか標準語で話せない。そんな言葉の使い方に現れた不安さえも橙子は敏感に心で捉え、悟と同じように胸の締め付けられるような思いで聞いていた。

「そういうので良かったら出来ますよ。私作れますからそういうの、ホームページとか。今私もお店やってて、イベントとか地域ぐるみでやるような小さいのですけど、そういうの得意なんです。組み立てるっていうか、仕掛けちゃうの。」

 悟は目を見開くと少し視線を足元に落とした。そして開口一番勢いよく橙子の両肩を掴んだ。

「お願いできませんか。どんなことでもいいんです。今暮らしていかなきゃならなくて。一緒になりたい人がいるんです。どうしてもお金、いや、仕事が必要なんです。」

 彼女がいるんだ。と、橙子は内心傷ついていた。でも、今この人に何かできるのは私だけなんじゃないだろうか? 私がこの人を支えてあげたらそれはそれで幸せな事なんじゃないだろうか。 ずっと年下の男の子に恋をするなんてことありもしないだろうし。



「で、なんでもやるの?」

 10年後の橙子(とうこ)は少々手厳しい存在になっていた。
 とはいえ、包容力は今までより増している。見た目もよりふくよかに増している。 今やアート・イベントを数多く手がける中・四国では有名なギャラリー・オーナーとなった橙子。その開かれたオフィスには社長室というものがない。

陽が沈んだ後の空、マジックアワーの暖色に似た壁に囲まれた穏やかな、吹き抜けた空間がそこにあるだけ。観葉植物が壁にそって配置され、さながら森に現れた開けた空間のようだ。

 10人が余裕で使用できるほど大きな木製のロングデスクに、お揃いのロングチェア。社員は皆それに集うように仕事をしている。その様子は、まるでおとぎ話の世界のようにも見えた。

 いわゆる個人のスペースという縛りがなく、資料を山のように自分の周囲においておく必要がある多忙な者がより広くデスクを使う。 手すきの者は多忙な者を自然と助ける。そうしないといつまでたってもデスクを独り占めされてしまうから。 単純なようで、大きなデスクをみんなで共有するという姿勢が、より自然ないたわり合う気持ちとコミュニケーションを生み、仕事効率化を図る重要な要素にもなっていた。

 少し離れて、そのやり取りを見守るように、白いスーツに身を固めたロングヘアの橙子が、丸い切り株のような椅子に座っている。そのうえ橙子はいつも丸いグリーン・フレームのダテ・メガネを、チェーンで首から下げつつiPadを片手に仕事を進めている。特に目が悪いわけではない。今はやりのPC用メガネでもない。あくまでファッションとしてのメガネ。 そのせいで周囲から見ると若干老けて見え、人のいいおばさん、という雰囲気になってしまうのだが、この親しみやすい雰囲気が今の彼女の最大の武器であり人望の所以だった。

 気になることがあれば眼鏡をかけて自分から社員に歩み寄る。この方が社長に話しかけにくい雰囲気を払拭するのに一役買う。その上、ダイエットにもなる。

 そんな橙子の目の前でうなだれている悟はさながら森の迷い人。

 よくまあ私のところにこれたものだと内心呆れながらも、ここまでたどり着いた、やつれた元カレをほっておけない性分。それに振れる話がないわけでもない。

 しかし橙子は悟の性格を誰よりもよく知っている。敏感すぎるその心は意にそぐわないものを拒絶し時にトラブルを起こす。時にというより知る限りはいつもである。悟の起こした仕事上のトラブルを散々もみ消してきた。橙子がいなければ広島で悟は写真家として生活を送ることは不可能だったはずだ。

「今幾ら足りない?」

「電気水道はいいとして、家賃とかもろもろ……」

「滝さんのところね。電気も水道も止まっていてはダメね。実家暮らしに戻す気はない?」

 悟は実家の話をされると一瞬顔をあげ、そして目をそらす。

 めんどくさいと思いつつも、これだけは言わない方が良かったと橙子は少し次の言葉に困った。

「とりあえず今個展をやっても誰もこない。だからます世間の評判になるようなことをなにかやってもらわないと。来週ちょうどいい話をあなたに振れそうだから、またこの時間にいらっしゃい。その代わり今回は絶対に途中で投げ出さないこと。いいかしら。」

「了解……」

 橙子は眼鏡を外し立ち上がると笑顔で悟に歩み寄った。

「しっかりして頂戴よ。報酬はとりあえず100。レギュラーになればもっといけるかもしれないんだから。」

「100!本当に100万も出る仕事があるんかいの!」

 悟は橙子の両肩を勢いよくつかんでいた。

 橙子は正直嬉しかった。でも昔の恋に照れている自分は知られたくない。もうそんな歳でもないと身構えた。
 ブラインドから夕暮れの日差しが差し込み、外からは川辺をいく船の音がしていた。





二〇一一年 一二月 初旬・深夜

 滝のバーに橙子がやってきた。長い黒髪を揺らし一人カウンターに座る。床までしっかりとのびた長い足。赤いヒールは男なら誰もが目を奪われる。彼女が注文したカクテルはヴェスパー。

 滝はいきなりこれかとタイを締め直しカクテルを作り始めた。

 滝と橙子、ふたりの間には緊張感がただよっている。

 カクテルを待つ間、慣れた手つきでセブンスターにマッチで火をつける。その姿をみると、その場に居合わせた大概の男達は引き下がる。普通の職業の女ではないと、そのただずまいから感じ取るからだ。これも橙子がこの10年で身につけた処世術ではあるのだが、特にこの場所で、彼女は背負ってきたすべてを吐き出すように、タバコの煙を深く、ゆっくりと吐き出す。

 ヴェスパーが彼女の前にやってきた。

 滝は黙ってただずんでいる。

 橙子は一気に飲み干すと、グラスを滝に差し戻す。

「もう一杯ちょうだい。」

「飲みつぶれるまで本題を切り出さないつもりか。」

「私にボンドは現れないの。」

「ヴェスパーはな……」

「知ってるわ。本心を ” 悟 ” られる前に、死んだ女の話でしょ。この女は私が飲み干してやるの。」

 そこに重そうにパンパンに詰まった手提げ袋を二つ抱えた沙里がやってきた。橙子に呼び出されていたのだが、ゆっくりと振り向き、美しいが冷たすぎる笑顔を浮かべた橙子に背筋が凍った。この人は何かを企んでいる。と。

 沙里は橙子と席をひとつ空けて座った。

「やっぱり」

 と、橙子はボソリと言った。

 椅子に腰をしっかりと下ろす手前で固まった沙里はふらつきながら上目遣いの橙子をまともに見えないでいる。

「大丈夫、そこに座りなさい。どのみちもう一人来るから。あなたは私に距離を置く。それくらいはもうわかってますから。」

やりにくい。

 沙里だけでなく、カクテルを作る滝もまたそう思っていた。注文を早めに聞いてほったらかしにしておきたいと心底思う、そんな時。

「え~」

 滝は思わず顔と口に出してしまった。 そこに現れたもう一人の女性、それはかつて悟のアシスタントを務めていた一ノ瀬(いちのせ)みかこだった。

 みかこと悟は一番いい時期に出会っている。誰もがこの二人は交際していると思うほど仲が良かったし、あ、うんの呼吸を持てる間柄だった。

 悟との関係の中で、自分の人生や相手の人生を初めて真剣に考え、次の人生のステップをふむことが出来たし、悟とはいい関係を保てていると思っていた。

「この子を悟アシスタントにつけます。それで渡の仕事を悟にやらせようと思うから。」

 滝は驚いた顔でカクテルをすっ~と差し出すと、沙里、みかこの注文も聞かずに店の奥へと消えた。

「私のプランニングとか、渡さんとの会話の中で決めた事とかそういうのがあって、打ち合わせをしたいってお話じゃないんでしょうか?」

「カメラマン、いないでしょ?」

 沙里は手提げ袋から、かき集めてきた写真と広島県内で有名どころの写真家のプロフィールをカウンターに焦って広げ始める。

「いいから、そんなもの。こちらの要求を聞き入れて、スタッフが動きやすい人がこの中にいないでしょ。」

 沙里はカウンターに広げた書類を読んでくれと言わんばかりに差し出しながら強く反論する。

「この経歴を見てください。どなたも皆一流でプロ中のプロの方です。だからこそ今回の仕事もうまくこなしてくれるはずです。金額の交渉ももう始まってますし、これだけの写真を撮ってこれる人がたくさんいるんですから。」

「無理でしょうね。」

 沙里が声に振り返ると、橙子よりはこぶりながら、同じく上から目線で沙里を見るみかこ。カウンターに座り、いつの間にかワインベースのカクテル、キティを飲んでいた。カウンターの中から覗く滝の申し訳無さそうな顔に沙里はアウェイ感を急激に感じた。

 みかこは沙里に追い打ちを掛ける。

「あなたが揃えたのはデータと自分の感性に合う写真。今回の仕事に適応できる人物をその人柄や人間関係の中から考察して、なんていうか、女性的第六感で決めてきたわけじゃない。もし決めていたとしても、あなたは他の人のデータに振り回されて決定できない。だから手提げ袋を2つも持ってきた。ちがう?」

 図星だった…… 沙里にはこの人に撮って欲しいという写真家は一人だけしかいなかった。けれどそれを決めかねていたし、広島で顔の広い橙子の意見を聞いてから決めようと莫大な資料の中からこれでもより分けた方ではあった。けれどたしかに多い。

「いいセンスしてるじゃない」

 橙子は写真家のプロフィールをひとつ手にとって沙里に微笑んだ。

「言ってご覧なさい。あなたがもう決めている人、一人だけいるんでしょ?」

 みかこは沙里を見つめながら赤ワインべースのロングカクテルを一口飲むと、小柄な彼女はチョコンと長椅子から降り、カウンターの写真を物色し始めた。

 口から言いたいことを言い出せない沙里。

 滝は急いでヴァージン・バーボンをグラスにつぐと、沙里の前に、いや手に直接持たせた。(大丈夫、ばんがれ~、オジサンついてるから!)という心の声を視線に込めて。

 沙里はなんだかよくわからないけれど、言ってダメならそれはそれと意を決し、バーボンを一気に煽った。

「あ、それダブル!」

グラスをカウンターに叩きつけると沙里は他の客が動揺するくらい大きな声で叫んだ。

「私が選んだのは、中田悟さんです! それ意外はどうでもいい!!」

 みかこは笑いが止まらなかった、なぜなら、沙里が持参したサンプルの写真の殆どは悟の写真だったからだ。そして、橙子がニヤニヤと手にとったプロフィールをさりに見せる。

「結局、同じ意見でしょ。あなたが仕切ってたら2時間かかる打ち合わせが5分で終わったわね。 じゃあ、後は女子会にしましょう」

 やり取りを見ていた他の客は潮が引くように一斉に去っていった。

 滝は今日も眠れない……。



 翌朝9時頃。カーテンを締め切り、ひとすじの光も入らない部屋に、シャワーの音が豪雨の如く響いいている。1Kにしては少し広めな八畳ほどの和室部屋を丸く、薄オレンジがかったルームランプが小さく照らす。敷きっぱなしの布団の横で、黒く四角い、冬はこたつにもなるテーブルがひとつ。その上に昨晩着ていたブラウスなどが脱いでそのまま重ねて置いてあった。

 一ノ瀬(いちのせ)は体を拭きながら浴室から出てくる。短く切った髪は後ろをスッキリと刈りあげていて、タオルドライでじゅうぶん乾くほど。使い終えたタオルは玄関横に置かれた洗濯機の中へ放り込む。そこからは流れ作業の休日が始まる。部屋に戻るとテーブルの上にある服をエコバッグの中に放り込む。 スーツのジャケットは表裏目を通し「まだいける」とつぶやくとハンガーに掛けカーテンレールにかけた。押し入れを開けると畳んで重ねて置いてある下着や洋服を適当に選んで着こむ。特にこれとこだわった様子はない。

 携帯をジーンズのポケットに放り込むとダウンジャケットをはおり、エコバッグを肩から下げて玄関へ、扉を開けると強い日差しが飛び込み、一ノ瀬は怪訝な顔をした。

 「あ、メガネ、、、」 

 駅までの道沿いにあるクリーニング屋に立ち寄り洋服を出す。下着以外はほとんど店に出していた。単にズボラというわけでもない、ブラウスは10着出せば料金は3割引きになるし、自宅で洗うより綺麗に仕上がる。 なによりビニールから出すときの新品感が彼女にはたまらないからだ。 エコバッグを小さくたたむと、ダウンジャケットのポケットに放り込み、機嫌良さそうに駅へと歩き出す。

 一ノ瀬(いちのせ)もまた市内電車が好きで、座っていればとりあえず街中まで連れて行ってくれるこれを好んでよく利用した。電車内、彼女はメガネを外すと緩んだネジにグラグラと揺れるテンプルを見つめていた。次は紙屋町西。ほぼすべての乗客が降りる広島の中心地だが、一ノ瀬は車内に一人残り、その先の先、広島大学の跡地の公園に向かった。





二〇〇六年 四月

 悟は少々困っていた、滝からの紹介で市内にある写真専門学校から、職場研修という形で学生をバイトで何人か入らせてくれないか? というのだ。それであれば大手の写場やフォトスタジオのほうがいいのではないか? と話したのだが、職場体験は1つの職場で1人から多くても3人が限度。その上雑用ではなく、生の現場を見せて上げてほしいと懇願されていた。 渋々了承したものの、面接というものも出来ず、どんな子が来るのかわからないまま、悟は1人だけという約束で学生を受け入れた。それが当時18歳の一ノ瀬との出会いだった。

 広島市内にある広島大学の跡地は、市民に開かれた公園で、背の高い銀杏並木が並ぶ先に広大な芝生、赤レンガの旧大学建物という自然と少しレトロな建物のコントラストに晴天時には空の青が栄え渡る爽快なロケーションだ。ここで写真撮影をするカメラマンはプロ・アマ問わず多く、特にウェディングの前撮りと呼ばれる挙式前の記念撮影はここが使われる事が多い。悟もこの手の仕事を請け負うときは大抵ここを使った。市電でもクルマでもアクセスしやすく、市内のロケーションとしては申し分ないからだ。

 そこに一ノ瀬が父親の運転するベンツに乗って現れた。悟は初見でこれはダメだと思った。自分はフィルム式のカメラ、彼女は出始めたばかりの最新機種のデジタル一眼。父親は満面の笑みで娘より前に出て両手で握手をしてきた。よろしくお願い申し上げますもなにも、僕がこの子の才能を引き伸ばすも何も、一流にしてあげられるわけじゃない。見学だとばかり思っていた悟は、シャッターを横で切られたらたまったもんじゃないと思っていた。その上また馬鹿げた話が、この父親がすぐに帰らない。ヘアもメイクも完成し、ブライダル・プランナーとともに撮影する新郎新婦が来ても、ずっとそばに張り付いているのだ。

「今日はよろしくお願いします。娘が職場体験をさせていただけるということで。」

 悟より先に新郎新婦に切り出す父親に悟は驚き慌てた。意味がわからないという顔の二人に悟は間髪入れずに割り込んだ。

「娘の職場体験みたいな緊張をしてるっていう感じというか、この方はこの公園の管理の方なんです。ほらリラックス、リラックスして行きましょう!」

 悟のこの言い訳もわけが分からないが、なんだかテンションが高い悟にとりあえずごまかせた感はあった。一ノ瀬の父親は悪びれもしていない、この空気を察知してもいない、悟は職場体験は伏せて、後ろで見ていてくれと耳打ちしたが、笑顔のまま「それがどうした」という感じで大きく頷いているだけだった。

「みかこ!なにしてるんだ引っ込んでないで、一緒に撮りなさい。」

 学校に入っていきなり父親から高級デジタル一眼レフカメラを買い渡され、どうしていいかわからない一ノ瀬(いちのせ)みかこがそこにいた。 悟の目を見ることも出来ない彼女が父親に背中を無理やり押されている。

「あ!それ、僕も欲しいんですよ!!」

 新郎がなぜか一ノ瀬の持つデジタル一眼レフに食いついてしまった。一ノ瀬の父と新郎がなぜか盛り上がり始めてしまい、今日の撮影プランは無茶苦茶になった。 フォトグラファーはただシャッターを切ればいいというものではない。最高の笑顔とは簡単に言うが、まず2人で撮影を開始し、気分が盛り上がるまでは会話を楽しみながらシャッターを切りまくらないと被写体が高揚してこないのだ。目の前でフィルムを交換して大げさに見せるのも大事なアピールで、現像するまで撮られている本人が確認できないからこそ言葉、会話が重要で、悟という写真家を信じて、信じきって、初めてレンズ越しに目があうようになり、いつもと変わらぬ自然な笑顔が引き出せるのだ。ウマイこと言いすぎてもダメで、嘘は直ぐにバレてしまうし、とても気を使いながら導いていく作業。いわばディレクション「導演」というものがそこには存在しているからだ。

「移転前にはここの大学の教授と知り合いでねえ」

 一ノ瀬の父親の話を聞けば、どうやら大学関係者というのは悟の口から出たでまかせと一致はしているようなので、とりあえずほおっておいた。心配そうにしている悟に今度は父親が耳打ちした「大丈夫です、わかってますから」え?嘘なのか?どこまでがほんとなんだ?全くなにがわかっているのやらと思いつつ、悟は大きなため息をつき仕事に入った。とりあえず新婦から撮ろう。今一番ないがしろにされている、可哀想なドレスの女性をヒロインにしてあげないといけない。

 悟は俯いたまま父親に背中を押されとぼとぼと悟についてくる一ノ瀬みかこに、少しでも役に立つよう、こう助言した。

 「ごめん、君をかまってられないから、なんでもいいから撮影してて。僕の後ろからにしてもらうけど、僕の言葉をよく聞いてれば参考になるから」

 悟は一ノ瀬にそれだけ言うと新婦に語りかけながらシャッターを切り始めた。

 なにをしているのか、うまく顔をあげれない一ノ瀬は、カメラを握りしめていた。するとしだいに笑い声が大きくなっていくのに気づいた。耳が反応した。そしてなんだか、こっちまで胸が高鳴るのを感じて、一ノ瀬は伏せていた目をこわごわ上げた。初対面にもかかわらず、5分としないうちに新婦の笑顔を引き出した悟のやりとりに、人との会話が世界が色づくほど魅力的に見えた。

 言葉で、人が笑い、人が照れ、顔を赤くし心から喜んでいる姿を見たことなど、それまでの彼女の生活にはなかったことだった。

 どうして私には友達がいなかったんだろう。

 一ノ瀬の頭をふとよぎったその言葉の理由が次々と目の前に現れているようにも見えた。それは会話。まさしくそれができていないことに全て原因があると思えた。中学でいじめにあった経験を持つ一ノ瀬はなにを言っても嫌われる、嫌がられる、と思い込んでいたのだった。 彼女はこの状況を見逃したくなかった。この状況をしっかりと自分のために残しておきたくなった。 

 一ノ瀬は生まれて初めてシャッターを切った。

 夢中でシャッターを切りまくる一ノ瀬の高級デジタル一眼は、シャッター音が驚くほどいい。 ピントを合わせる度になるピコンという電子音がまたよく響いた。悟からするとこれでまたテンポが狂い始めてはいたのだが、その音に高揚する新婦をフレームに納めることに自身の体制をシフトすることで、なんとか場をつないでいた。

「OKです!よかったですよ。その感じで今度は新郎さん入れて一気にはしゃいじゃいましょうか!」

 悟が振り返ると、新郎は一ノ瀬の父親と2人、一ノ瀬がもつ高級デジタル一眼レフに夢中だった。理由は単純で、液晶画面の撮影後プレビューに目を奪われていたのだ。 悟からしてみれば嘘としか思いたくない光景だった。その場で写真が見れたりしなくていいのに。 しかもその写真には悟が写り込んでいる、というより、悟がメインに撮られた写真ばかりだ。一ノ瀬は悟にしか興味がなかったのだから。

「これ、どういうことですか? うちの嫁写ってないし、ピンとボケてるし、そっちのカメラのは見れないんですか? 確認したいんですけど。」

 新郎が不満げにこぼした。その言葉に慌てながらブライダル・プランナーは悟を睨んでいた。そこに追い打ちを掛けるように、一ノ瀬の父親がバカなことを言う。

「それフィルムでしょ? 今時それじゃあ撮ってすぐ確認できないよねぇ。だいち写ってんのかっていう話だよねえ?」

 この言葉に新郎新婦の笑顔は完全に消えてしまった。そしてなにより悟もさすがに若かったし、一ノ瀬の父親に怒鳴りそうになった。まさしく「何もわかっていない!」と。しかし誰より先に、声を上げてしまったのは一ノ瀬みかこだった。

「お父さん仕事のじゃまをしないで!」

 一ノ瀬は泣いていた。 もうどうにもならない空気がそこにはあった。

 専門学校の職員室で、晴天の午後、腕を組んだまま悪いことはしていないという態度の一ノ瀬の父親と、事情を冷静に解説する悟。駆けつけた滝の姿があった。

「とにかく、僕は仕事を潰されたわけで、今後ウェディングの仕事が来るかどうかも、これでわからなくなったんです。父親まで出てくるなんていうのは、さすがに聞いてない。」

「お前がボロのカメラ使ってるのが悪いんじゃないか。だいちフリーってなんだそれは。こっちは学校の先生だと思ってたんだ。じゃなきゃお前みたいな勘違いした若造に娘を預けたりするか!」

 親の言い分が学校という組織の中では何より重い。

 だからこそ現場にしゃしゃり出てくるなというのが悟の本音で、それが世間の本音なのだが。それを援護するかのような学校の言い分もあった。

「私共としましては、大変失礼な結果になったことは遺憾におもいます。が、学校というところは、親御様から大切な生徒を預かり、その上で、きちんと社会に送り出さなければならない場所なんです。そのために今回実施ったのが職場体験でありまして、専門学校というのは、わずかに2年しか無い。夢だとか、そういったものには1日も早く目を覚ましてもらおうという狙いもあるんです。」

 この言葉に悟は唖然とした。滝は悟の代わりに、いや紹介者としてそれ以上に怒りをあらわにした。

「それは違うだろう! 現場でどれだけ努力をしてるのか、それを少しでも持ち帰ってもらって、夢を現実の物として持ち続けてもらうための場じゃないのか?」

「それじゃあ生きていけないでしょう!?」

 学校側は自分たちの考えを曲げなかった。預かった子どもたちの就職率も学校の評判に影響をする。写真という技術を学んだことはその子の経歴のひとつ。それを経歴として持った上でどこでもいい、就職が決まってさえくれればいいという考えだった。

 現役のカメラマンである悟からすれば、これと決めた道を歩くために広げる人脈の大切さや、シャッター切る事以外に学んだことなど、その全てが大事だというのに、後輩にそれを教えなきゃならないとか、それを現場でどう体験してもらうか? ということばかりを考えていたのに、自分の人生それすらも否定されたような気がしていた。

 悟は無言で立ち上がると、挨拶もせず職員室を出た。すると部屋の外で一部始終のやり取りを聴いていた一ノ瀬みかこがそこにいた。悟の目を、見ることが出来ずにうつむいていた。 悟もまた、声もかけずにたち去ってしまう。

 しかし彼はすぐさま帰宅し、現像作業に入った。今すぐやらなければならないことを優先したのだ。普段は業者に任せるが、今回は特別だ。自分で現像液の配分から、どれだけの時間現像液につけるか? それら全てを行う。自分の納得の行く色が出せるまで、できるだけ早く、しかも手を抜かず、今日迷惑をかけた新郎新婦のもとに届けるために。 

 フィルムの良さはここにある。誰もが出せない色を、この段階で悟自身が作り出すことができる。フィルム現像は生物であり、人間のもつ心が反映されるかのように、最適な現像薬品、調合法、調合料を自身で決断し決めていく。トライアンド・エラーは当たり前の世界。面倒だからこそ、それを最後までやり遂げる情熱が必要であり、写真に自分の思いを込めていく作業は紙に焼き付け人前に出す最後の最後まで続いていく、精神力との静かな戦いなのだ。


 翌日の昼頃、昨日の新婦が新郎をカフェchaton(シャトン)へランチに誘った。 

 なんでこんな郊外のカフェに?と思いつつ、新郎は会社の車を飛ばし、外回りのついでに立ち寄った。新婦はテーブルに付いており、 満面の笑みで目に涙を浮かべている。

 chaton(シャトン)の店主、美幸は、黙って新婦の横の席に手を差し伸べる。どうぞこちらへと。

 新郎、新婦が座った席の先には昨日撮影した写真が大きく引き伸ばされ、ナチュラルな天然木の額縁に入れられていた。

 澄み切った青い空に、冬の芝生はオレンジで暖かく広がり、その奥にある赤レンガの建物は気持ちくっきりと強調され、背の高い12月銀杏は金色に輝いていた。そしてその中心に、浮かび上がった新婦の姿は、ウェディング・ドレスに織り込まれたキルトの模様まで細かく、きっちりと見栄えし、波打つドレスの流れはぼやけ気味に風景に溶け込む。

 新婦が着ていたのはヴィンテージ・ウェディングドレス。

 流行り廃りのないもので、冬場の屋外でも温かみを感じる70年代のガニーサックス。アイボリー色が特徴的なドレスで民族衣装的であり、一見カジュアルな洋服のようにも見えるのだが、手にもつユリの花で作られたブーケの白が印象的に引き立っている。

「もう一度、僕に撮らせてもらえませんか。」

 新郎新婦が振り返ると、そこには頭を下げる悟がいた。

 悟の申し出を断る理由など、そこには何一つなかった。


 その日以来、悟がウェディングの写真を撮影していると、いつも公園の隅で悟の姿を見ながらシャッターを切る一ノ瀬の姿があった。悟もはじめは気づかなかったが、次第にフレームに入り込んでくる片隅の小さな一ノ瀬に気づいた。

「そんな望遠、使いこなせないだろ?被写体に近づかないと、いい写真は撮れないよ。」

 悟は一ノ瀬に声をかけると、名刺を渡した。

「興味があればここへ。教えられることは、僕が教えるから。」

 目を伏せたまま、渡された名刺を見つめて動けなくなっている一ノ瀬、なんて声を返したらいいのか、全くわからなかった。

「それと、メガネ、買いなさい。コンタクトだと多分厳しいから、まあ、メガネでもあれだけど、そのデジイチの液晶があれば、ピントは多分合わせられるから。」





現在

 一ノ瀬は公園のベンチに座り、修理したてのメガネをかけて、まっすぐ前だけを見ていた。 結局、一ノ瀬が興味を持ったのは悟自身で、悟の声で、悟との会話が、世界を広げてくれたから、彼女はこの世界を今も直視できる。

 彼女は悟の写真がもっともっと見たかった。


 人気の少ない12月の肌寒い公園が、とても暖かいのはその思い出のせいで、写真の道を諦めたけど、違う形で関わりたいと思う自分の生き方に、誇りを持とうと決意する。

 一ノ瀬(いちのせ)みかこにとって、この公園は、そんな思い出の場所だ。



二00五年 六月
梅雨の夕暮れ。突然の豪雨の音。傘を持ち合わせなかった人々がビルの中に飛び込み雨宿り。 そんな中、一人折りたたみ傘をバッグから静かに取り出し家路を急ぐのは小松まこ。


図書館司書をしている彼女は日常を、規則正しく送っている。ある程度の事態を想定しているので、雨ぐらいで生活のリズムがくずれることはない。彼女の勤務する中央図書館は広島城にほど近い街の中心にあり、実家から徒歩で通えるエリアにある。広島城のほとりを歩き横川という街へ抜ける。途中通る基町公園は季節の移り変わりとともに変化する整えられた街路樹があり、それが彼女のお気に入りだった。 突然の豪雨のせいか、道を歩くのは彼女と、ほんの数100m先を行く男性の姿だけ。しかもその男性は傘を持っていないようで、肩を落とし雨に強く打たれよろよろと歩いていた。街路樹5本分、4本分、3本分、まことその男性の距離は次第に詰まって行く。 と、まこの目の前で、その男性は崩れるように倒れてしまった。
これは流石に想定できる日常の風景ではない。
まこは不意の出来事に立ち止まる。 周囲には自分しかいない。携帯を取り出すと救急車を呼んだ。

救急車が駆けつけるまで、まこ以外には誰も通り過ぎる者がいなかった。そして、男性の持ち物が、つい先ほどまこが図書館で貸し出した写真集だったことで、だとしたらこの人はやはりいつも本を借りにくるあの男性か?と気にかかっていた。

その後のことはあっという間の出来事で、気づけばまこは病院の一室で男性のそばに座っていた。

「中田 悟」やはりそうだ。とまこは思った。 救急隊員に「身分証がジャケットの右ポケットに入っているはずです。」と、最近よく見かける悟のことを話しただけで、知り合いと勘違いされ、拒絶することもできずここまできてしまった。
医者からは悟が胃潰瘍になっていること。風邪もひいていて過労気味だったのか?かなり衰弱しているということも聞いてしまった。 彼女でもないのに、何だか困った。と思いつつ。彼女はそれを表情に出せない。反応もどこか鈍い。だからこそ周囲はとりあえず言いたいことだけ言って去って行く。 まこはこれまでも、いつもそういう状況を冷静に受け止め、自分にできることだけを淡々とこなしてきた。 今回はメモを書き、そろそろ帰るのが最善策のはず。雨に濡れた本は自分が持ち帰り、事情を明日上司に話して、新しい書籍を購入する手続きをして。と、明日何をやるか、彼女の中では整理がつき始めていた。
「楓(かえで)」
悟がうわ言をつぶやく。 それが名前だとはおもわず、カエデ、という色葉紅葉が頭をよぎった。

翌週、図書館で仕事をするその時々に、窓から見える木々の景色が気になった。カエデの紅葉の季節ではやはりない。それどころか木々は夏に向け日に日に緑に色づいて行く。 なぜ、今カエデなのか? まこの中で整理がつかない疑問が一つだけ残ってしまった。

悟は割と早く退院できたらしく、やはりここに本を借りにくる。その度に、よく目が会うようになった。 本を整理している時も、貸し出しの処理をしている時も、悟が自分を見ているような気がしていた。

まこにはこれまでに一度だけ彼氏がいた。23年間で1度だけ。
その時は自分に不釣り合いな人を選んでしまい、失敗だったと今では考えている。まこは自分が置かれている状況をよくよく観察はするものの、自分がこうしたいということを、あまり話す方ではない。だからなのか?その時は逆に自己主張の強いよく喋ってくれる人を選んだ。そしてやはりうまくいかなかった。彼女の無口さに相手は疲れ、その時の恋愛で彼女がした唯一記憶に残る自己主張が「別れましょう」の一言。それも手紙で伝えてしまった。 それ以降、あまり恋愛には自身がない。ただ淡々と日常生活をこなすこと。それが一番自分に合っている。とにかくイレギュラーは困ると思うようになっていた。

しかし悟という男の日常はイレギュラーの塊だし、それこそもし自分を助けてくれた人がこの子だとしたら、食事の一つも誘わなきゃと思うようなタイプである。
悟はまこに声をかけた。ごく普通に、僕をあの時助けてくれたのは君ですか?と。

神のいたずらか、このアプローチが意外とうまく行った。
まこはただ頷くのみ。やはりあまり喋らないけれど。

デートに誘われても、言われるがまま。悟が何を考えているのかを気にかけ、冷静に様子をうかがっていた。悟は逆に表情が乏しくほぼしゃべらないまことの会話に困ると写真を撮った。 悟からすれば表情の無いまこに少しでも表情を与えたいと、どこか躍起になっている部分もあった。 そして次第に、自分のために必死になってくれる悟の姿にふと笑がこぼれるようになり、お互い惹かれあいはじめてはいた。
ただこれも、世間一般に言う急接近ではなく、胃潰瘍が治るまでそれこそ数ヶ月は、悟もいつもの生活のペースに戻せず、気長にまこにつきあっていけたという理由もあってのことだった。
病院の帰りに図書館によって、まこのオススメの本を読む。 差し出されたそれを無言で受け取って閉館までそこにいた。ときたま仕事をしているまこに視線を送りながら。
帰宅する彼女をいつもの街路樹で同じ時間に待ち失せて、同じアングルで写真を撮って「同じ時間、同じ世界なんてない。雲の流れも陽射しも、そのすべてが日々違うもの」と悟はまこに見せてあげたかった。

図書館に行くと悟は現像した写真を封筒にいれて差し出す。 まこは黙ってオススメの書籍を差し出す。

こんなやり取りを半年近くつ受けたのだから、この時期の悟は気が長かった。

まこは写真を見るたびに、表情は毎日変わらないものだなあと、そのことが一番気になった。けど、表情の変え方を知らないのもまた、自分だったので仕方が無い。

悟は病気になってなかったら ”あれ以来” こんなに落ち着いて女性と向き合っただろうか? そして純粋なまでに誰かの笑顔のために努力をしただろうか?

二人にとって最高のイレギュラーは人生の転機になる、はずだった。

ようやく二人が恋人同士として付き合いはじめようとしていたある日、フリー・ジャーナリストの三上涼子(みかみりょうこ)が現れる。悟にあることを取材しに。



1ヶ月の間、悟とまこは一度も会わなかった。


 まこと悟の、いつもの帰路に現れた三上涼子という女性。そこで三上が口にした楓(かえで)という人の名。 悟があまりに真剣な表情で「今日はここで別れよう」と言った事。それを考えようとしなくても考えてしまう1ヶ月は数年にも感じられ、悟が図書館に現れなくなった日々、自分の体調が崩れるのではないかというほど心が揺さぶられたことも、初めての経験であり、こんな気持が自分自身にあるのかと、自分の無表情なはずの感情が困り果てるほど神妙になり、家族からもどこか最近おかしいといわれるようになり、まこの人生のなかで最も特殊な時間が過ぎていた。

 そして突然、いつもの帰路に現れた悟は、再会まもなく「すべてを話す」 と切り出してきた。

 近場にあった場末の喫茶店は、人気もなく、愛想のない店主は生ぬるいコーヒーを出すと、店の奥に引っ込んだまま。 静かすぎる店の中。外は、遠雷が響いていた。陽のささぬ初夏の、夕暮れ時。


「数年前、どうしても一緒になりたかった女性がいた。その人と、ともに暮らしていて、彼女のことを自分の事のように、いつも考えていた。

 けれど、その子には戸籍がなかった。 
 彼女が話すそんな話、僕は嘘だとばかり思っていた。いつも男を手玉に取って、嘘ばかりついてる女の悪い癖が抜けてないだけなんだろう、一緒にいる時間が長くすぎれば、そんな嘘、僕にだって見抜ける。僕にだけは嘘をつかなくなるだろうと、そう、思い込んでいた。 

そんな人がこの世に、今、この日本にいるはずなんて無いと思っていた。 

 彼女と出会ったのはキャバクラで、僕が少し、人生なにもかもうまくいっていると、いい気になっていた頃で、毎晩呑み歩いていたその頃、出会ってしまったんだ。 

 僕は昼間の生活で、彼女は夜の生活で、すれ違うこともたくさんあった。でも喧嘩一つ、僕らはしなかった。 

 彼女の生き方に偏見すら持ったことはなかった。 

 彼女が母親から受けていたDVのことも、体にあった傷のことも、僕はそれを知りながら、戸籍がない状況というものを、甘く考えていた。

 僕は、好きな人、愛した人、ひとり、救えない存在だった。

 彼女の言っていることが、本当だとわかりはじめた頃、情けないことに僕は動揺して、彼女を心の何処かで避け始めていた。 

 自分の人生が狂わされるんじゃないかと思い始めていた。 

 彼女は10代から年齢を偽り夜の世界で働いて、援交とか、想像できないくらい、おかしな生き方をせざるをえない、家族のいない、一人の生活を、普通でいう、中学生くらいからおくっていたらしい。その彼女は20歳になることを、とても特別に感じていて、その歳になれば、戸籍が取れるって。なにもかも、うまく行き始めるはずなんだって。その時になったら、運転免許をとって、気になるオープンカーを買って、二人でドライブに行きたいって、そう、僕にだけ見せる素顔で笑いながら話してた。 化粧を落とした顔を、風呂場で見せてくれる彼女が可愛くて、可愛すぎて、僕は無力で、なにもしてあげられないんじゃないかって、気にかけてばかりで。

 僕が部屋を借りて、二人で暮らし始めたとき、彼女にとってはようやくこの世界に居場所ができた時だったのに、僕は、どこか、日に日によそよそしくなってしまっていた。 
 
 そしてある朝、彼女は帰って来なかった。

 どこか1%でも、僕は、彼女のこれまでの話を真に受けていなかったというか、信じていなかったこともあって、いきなり消えた彼女をすぐに探さなかった。 

 ほんとうにバカだったと思ってる。

 あまりに帰ってこないんで、僕は彼女が務めていた店に赴いた。

 そうしたら、店に警察が立入禁止のテープを張っていて、そこで耳にした周囲の野次馬の話で、この店で事件があったんだと、ホステスが一人、客に刺殺されたと。

 源氏名意外、分からない子だったらしいと、聞いた。

 僕は、それが彼女だと思ってる。

 僕が全てつかめなかった。受け止めてあげられなかった、この手に抱きしめていられなかった。彼女だと思ってる。


 僕は親族じゃないから、なにを話した所で、彼女と僕が一緒に暮らしていたことも、警察には証明できなくて、結局、彼女の亡骸も確認できてない。

 嘘みたいな話だけど、それが僕に起きてしまったことで。それをようやく乗り越えられるんじゃないかと、思ってた。

 君と出会えて。

 あの日、道で倒れたのも、夜になると、彼女を探して街を彷徨い、酒を浴びるほど飲むような生活を続けていたからで、馬鹿らしい話だけど、僕は、この無力な自分を、僕は、殺そうとしていたのかもしれない。

 だから、君と出会えたことは、僕にとって人生の転機になるかもしれなかった。 


 けれど、そうも、行かなくなった。


 もしかしたら、彼女は、生きているのかも、しれないんだ。


 その可能性を、こないだ突然声をかけてきた、あのジャーナリストっていう、三上という人に、聞かされてしまったんだ。


 ごめん。


 僕は、君とは付き合えない。


 僕の中で、この一つの事が、彼女との事が、終わるまで。」

   
 まこは、喫茶店を飛び出した。ひたすら走り続けた。悟と出会った、あの街路樹のいつもの帰路まで。

 そして、いつもの帰路で、悟と出会ったあの場所で声を出して泣き崩れてしまった。

 どうしようもなかった。まこは、自分が本当に恋をしていたのだと、今、気づいた。

 そして、結局、悟の心が自分に無いことが悔しくて、情けなくて、嫌で嫌でしょうがなくて、自分が毎日の生活の中で感じるこの世界が変わり始めていたのに、心から笑えるかもしれなかったのに、自分の無表情な感情を変えることができるはずだったのに、悟と久々に会えて嬉しかったのに、どうして私はこんなに悔しくて泣いているのかと、湧き上がる感情をくい止められずに、泣いて泣いて、泣きはらしていた。自分の思いを悟ぶつけることも出来ないことすら悔しくて。

 突然の豪雨が、まこの涙と声をかき消してもなお、まこは、雨に打たれながら、泣き続けていた。

 


 翌日。まこはいつもと変わらず図書館で働いていた。 

 ただひとつ変わったのは、帰路を変えたこと。 

 淡々とした日々を取り戻すこと。それが一番彼女には重要で、その生活の中で自分を取り戻すことだけを考えた。
 
 けれど、この街には意外と楓の木が多い。 季節がめぐるたび、少しだけ複雑な思いがまこを襲った。 

 しかしまこは表情ひとつ変えず、楓をやりすごし、淡々と、気丈に日々を送り続けていった。 

 それが、彼女が理解している「自分」という存在。 だった。

二00六年 十月

 三上涼子(みかみりょうこ)は、満月の夜、飲み屋街、雑居ビルの非常階段で酔いつぶれて眠る悟を、その傍に立ち、蔑み、見つめていた。


 どうせこの男も、そのうち私に手を出してくる。


 涼子は悟の過去を調べ尽くしていた。その中で、楓という女性とわかれた後も、悟にはそこそこ彼女と呼べそうな女性がいた事を知り、一人の女性を探し求め街をうろついている、ストーカーとまでは言わないまでも一種執念というか、そういうものを持った男と、女のストーリーではないのではないか? と疑念を抱いていた。

 涼子は疑念を一度抱くと、その答えを掴むまでとことん追求していく。誰に反対されても、危険な目に会おうとも、その追求をやめたことはなかった。けれど、今回は半ば、悟と楓の恋路にはもはや興味もなく、それにつきまとう事件性の方が気がかりになっていた。悟は、ひとつの事件への導入をくれたきっかけでしかなくなっていたのだ。

 秋の飲み屋街はそれほど華やかではないが、ネオンは相変わらず派手に街角を照らしてはいた。しかし照らせば照らすほど、気味が悪いぐらい影がさす。その影の先に向かうものは少なからず災いにあうか、最悪死ぬか、どちらにせよ、その影はあまりに深かった。


 その影の中から、非常階段を見上げる初老の男がいた。


 その男はくわえタバコに火も付けず、ただじっと非常階段を見上げている。ネオン・サインが光るたび、時たま浮かび上がる涼子の姿を、その目はしっかりと捉えて離さなかった。

 涼子が起き上がった悟を介抱しながら、その場を立ち去るのを確認すると、男は影の中に、一歩下がり身を潜めた。二人が通りに出てタクシーに乗り込むまで、その目はずっと影から見つめている。

 タクシーが走りだすと、男は通りに姿を出した。

 なんてことはない灰色のスーツを着、ネクタイもしていない冴えないオヤジ風の男なのだが、タクシーのナンバーをメモに取ると、ビルの1Fに入っている夜の街の無料案内所に入っていく。横柄な態度で座っていた店の親父は緊張した面持ちで立ち上がると、そのよれた男のくわえタバコに火をつけようとした。

 「なにやってんだ!これ1本しかねえんだ!」


 男の怒鳴り声に通りは静まり返る。すぐさまチンピラが何人か店に駆けつけた。


「この人はいいんだ、タバコ、おまえ買ってこい、、、」

 無料案内書の店主は、顔面蒼白になって若いのを走らせた。


 男は店内に掲載されているキャバクラや風俗店の看板を隅々まで嘗め尽くすように見ている。

 その光景の異様さから、駆けつけたものは誰もその場をすぐさま離れていった。関わりたくなどない、誰もが直感でそう思ったのだ。

 翌朝、涼子の部屋で悟は目を覚ました。慣れた様子でシャワーを浴び、冷蔵庫の中にあるサンドイッチを手に取るとベランダに出た。 

 涼子の部屋からは街が見下ろせる。なんでこんな高層マンションにこの女は一人暮らししてるのか?悟は住む世界の違いを感じながら、この部屋に泊まる時はこの街を眺める。そもそも広島に、こんな高層マンション必要なのか?とさえ思いながら。

 悟の知っている広島は、街、というよりは、町、だ。

 隣に生きている人の顔、声、息の匂いまで知りあうほど狭く、同じ場所で遊び、その場所を生きる人達がいて、不思議とお互い干渉しあわず、でもどこかで繋がっていて、どこの生まれで、親父が誰で、どこの高校を出て、大学を出て、そういう系譜というか、自分の肩書きが幼い頃から綿綿と知れているような、そんな生きやすくも生きにくい、町。

 田舎者が集まった、集合体の都会、というそれとは違うのだ。

 その町に、街的な異変が起きたとすれば、楓との遭遇であり、また、三上涼子のような女がズケズケと走り回るようになったこの数年の事、なのかもしれない。もしかしたら、もう、自分の知っている町の灯は、もう灯らないのかもしれないと、悟はどんなに二日酔いがひどくても昼過ぎにはこの部屋を出て行くようにしていた。夜の街など、見下ろす気にはなれないからだ。

 悟がマンションを出て歩き始めると、涼子から電話が入った。でも、悟は電話に出ようとしなかった。悟もまた、関係をそろそろ終わらせないと行けないと考えていたからだ。体の関係こそないものの、酔いつぶれては涼子のマンションで目を覚ますなんて言う事自体、これ以上、心のなかを知られては困ると思っていた。



 Chaton(シャトン)

 小松マコは店内でアッサムティーを。店主である美幸はその傍らにただ静かに座り、無言の二人は壁にかけられた悟の写真を見ている。

「なんで出ないのよ。」

 そこに携帯を片手に涼子が入ってきた。いつもより勢い良く開いた扉に、寝ていた猫が驚いて外へ飛び出していった。マコは怪訝な顔をした。けれど美幸は相変わらず無表情だ。

「悟さんのことについてお伺いしたいことがあって。このお店見つけるの大変だったんですよ。」

 涼子は店に飾られた写真に近づいては手に触れ、これも、これもと騒ぎ出した。

「この写真を撮っていた頃の話を聞きたいんです。楓、という人、いましたよね。よくここにも来てたんじゃないんですか?何者で、何をしている人で、そういう話をここで随分されたんじゃないんですか?」

 美幸は表情一つ変えようとしない。

「黙ってるんだったらこっちから行きますよ。わたし、フリーのジャーナリストをしてます三上涼子と言います。私が今追っている事件は二千年のこの時期、一人のホステスが殺された事件。刺殺された彼女は名前も戸籍もなかった。彼女の事だけじゃないんです。戸籍のない人々のことを追っています。その中でも、特筆すべき存在が楓というホステスだった。なにせ生存を確認できていたとき、その時点で未成年。当然店は潰れ、彼女に関わった多くの人々の人生は狂った。それに、不思議なことが一つ。犯人とされている人物が未だ逃亡中だっていうこと。店で働いていた人の中には逮捕され、まだ塀の中って人までいるっていうのに、です。

 そういう中で、あの悟という人だけは難を逃れて、街をうろついていた。その年のクリスマス・イブでさえ、楓という人を探して。おかしいと思いませんか?そんな謎の女性を探し歩いていれば、普通は危険な目にだって会うはずなのに、彼は、悟という人はその後もこの街で仕事を続けている。

 面白いくらい会うんですよ、同じ店で、飲んでも飲んでも、いくら飲ませてもこの話をしようとしない。なにかの組織とでも繋がってるんじゃないかって疑いたくもなるくらい。」

 滝が飛び出した猫を抱えて店に入ってきた。出勤前のコーヒーをといつものように頼みたいところだったが、今日は様子が違う。滝を見ると美幸はコーヒーを作りに店の奥へ身を潜めた。

「マコちゃん、今日は長居するの?」

 滝の一言に、マコは、はっと時計を見た。もう13時半、マコはテーブルにお金を置き、滝におじぎをすると急いで店を出た。

 マコが座っていた席に、ゆっくり滝が座る。抱えていた猫はテーブルの上をとことこと歩くと、涼子の方を睨みつけ、ぷい、と店の奥へ走り去った。

 正面に座る涼子は、まだ話し続けようとしていた。

「あなたのことも、ずっと探してました。絶対に悟ってひとは、あなたの店を私に教えようとしなかった。」

「俺が誰だかわかるのか。」

「わかってます。全部調べてあります。悟の周辺についてはね。けれどこういう出会い方じゃなくて、酔った勢いで、悟の彼女としてお会いしたかったです。そのほうが、色々聞き出せたし。」

 滝は鼻で笑った。

 美幸はコーヒーを滝に差し出す。滝はコーヒーを手にとることなく、ただじっと涼子の口元を見ていた。涼子は頬杖をつくように口元に手をやりながら、落ち着きなく話している。おそらくは口元を見られたくない、それはつまり、ハッタリも半分、いやそれ以上にかましているはずだと滝は察していた。

「その写真を見て何を感じた」

 滝の言葉に涼子は壁にかけられた写真に振り返る、とその瞬間、滝はテーブルの上の、マコが飲んでいたアッサムティー入のティーボトルをひっくり返す。中身はテーブルの上をまっすぐ流れ涼子の膝にかかった。驚いて床に転げ落ちた涼子。

「すまんすまん、怪我、ないか?」

 猫も隣の部屋から顔をのぞかせ、涼子をあざ笑う。

 そして美幸は、黙ってその光景を見ていた。

 立ち上がると涼子は手で、濡れた白いジーンズを拭った。

「田舎もんの慣れ合いもここまでよ。」

 バッグを鷲掴みにし涼子は店を出て行ったが、おそらくしつこくやって来るだろう、あの手この手、態度も変えて。

 美幸は滝をじっ、と見ている。

「わかったよ、、、床は俺が拭くよ、、、ちったあ感謝しろよ」

 滝は自分に入れられたコーヒーを一口のんだ。


 夜、悟は涼子とよく行く小じんまりとした居酒屋にいた。飲み屋街にある居酒屋というのは、一つ裏通りの隅の方にあるもので、街の片隅にポツリとある赤ちょうちんのそれと同じく、その町で働く人々を別け隔てなく受け入れる灯りであり、こういう場所の居酒屋は普通の客というよりは出勤前の夜の蝶や、店のオーナーなどが多い。
 悟はと言えば、よく来る変わった客の一人で、何度通おうと、この町の住人としては受け入れられていないような存在だった。なぜなら、彼はこの町にとって客であり、この町で商売をしている仲間ではないからだ。そういう男に居酒屋の店主も話しかけたりはしない。


「熱燗」

 前日、明け方まで悟と涼子を監視していたあの男が店に入るなり慣れた口調で熱燗を頼んだ。悟とは対角のカウンターの隅に座る男。小さな居酒屋の隅と隅に暗い影が落ちた。

 程なく涼子がやってくる。いつものことで、必ず彼女が遅れてやってくるのだ。いつもの!と言えば酒とツマミが出てきてもおかしくはないのだが、居酒屋の親父はいつも必ず「なんにしやす?」と聞き返す。涼子は毎度、焼酎とおでん盛り合わせ、煮玉子は嫌いだから入れないで、という。おでんで煮玉子を食べない。こんな個性の強い女のオーダーを、店の親父は受け入れ、そしていつも、聞き流していた。

 今日Chatonに行ったこと、そこで滝に会えたことなど、涼子は事細かに話した。悟はその日に何を彼女が掴んできたのか、黙って聞いている。そして、いつも飲み過ぎてしまう。そして今日は不思議だなと思っていた。涼子と出会って1年弱、これだけ情報収集能力があるにも関わらず、まだ核心に迫れないでいる彼女は、果たして本物のジャーナリストなのか?いかに足で稼ぐとはいっても、あまりに時間がかかりすぎている。

 大根、はんぺん、つくね串。おでんを食べ始めたらそればかり食べてお酒を飲むことをしない。意外なことに、喋りながら話すこともあまり得意ではないらしい彼女が食事に集中している隙に、悟は話始める。

「なにがそんなに気になるん?結局、楓のことにゃ最近あまり触れとらんみたいじゃし」

「それ、、、3回、、、目」

 そう、悟はここ最近それが気がかりだった。結局のところ、どうも話が違うのだ、涼子は楓のことを追いかけてはおらず、他の何かを追いかけているように思えた。
 
 おでんを食べ終えて焼酎を冷で一口飲むと涼子は少し苛立ち気味に話し始める。

「女の線からは何も見えてこないのよ。結局、楓という女のことをだれも知らないんじゃないかっていうくらい、口をつぐむ。特にこの町の人達は知らぬ存ぜぬしらを切り通してる。あの日事件を起こした男がまだ捕まってもいないのに、この町のどこかにいるかもしれないのに。一体誰が事件を起こしたんだと思う?」 

 その言葉に反応したのは昨晩のあの男だった。熱燗を煽り、目だけがこちらを凝視している。悟はふと、その男と目が合った。 


「誰が事件を起こしたのか? それを掴んでるのか?」

「まだ、よくわからないけど……」


 悟はその男と目があったまま呟いた


「1年以上追いかけてて?そうか、メモも取らないんじゃあ、なかなか前には進まんよな」

 悟は決定的なことを口にした。あのよく喋る涼子はたたみかけるように息巻いた。


「プロはメモなんか取らないわよ!あんたも、この街の人間も、もうとっくに私のこと気づいてる。なのにみんなしてだんまり決め込んでさ。そういうことされてるから、回り道しても犯人捕まえたいと思うんじゃない。本当のこと知りたいと思うんじゃない。あんた毎晩飲んでて、楓の事なにが分かったの? それに忘れようとだってしてる。自分のために。忘れたほうがいいと思ってる。 そんなの、私は許したくないの。」

 涼子はいつも怒りだすとその場からいなくなる。

 出て行く涼子の後を追うように、あの男も出て行った。カウンターにはくしゃくしゃの1000円札。

 男の事が少し気になったが、悟は後を追わなかった。今夜は涼子のマンションに止まらなくてよさそうだと、そちらのほうが大事で、こうやって涼子の気持ちの一端を引きずり出そうとすれば、そのうち彼女は目の前からいなくなる、そのほうがいいと思っていたからだ。人の心の整理がつかないところに、土足で踏み込んで演説をして帰っていくような女、自分には到底理解できそうもないと、悟はある意味諦めていた。たとえ向こうが自分の事を理解しようとしていたとしても。

 店の親父が黙って空になったおでんの皿を片付ける。


「めんどくさいオナゴ(女)じゃねぇ」

 親父は一言いうと、悟に黙って注文されていない熱燗と煮玉子を出した。

「いいの?」

「ええよぉ」

 煮玉子を箸で割りながら、悟は少し、この町に受け入れられた気がしていた。 


 怒って足早に自宅に向かう涼子は酔いが早く回ったのか、思わぬ場所で道に迷った。一箇所曲がり角を間違えただけで、風景が変わってしまうのが夜の街の怖い所で、よりにもよって、彼女は抜けた先も闇という、ビル群の一角、コインパーキングが広がる場所へ出てしまった。

「What’sUP?」

 後ろから突然の英語に肩がすくんだ。振り返るとかなり酔っ払った外国人2人組がいる。屈強な体つきとタトゥーを見て、ひと目で米兵だと気づいた。広島には隣の山口県岩国市にある米軍基地から週末ともなれば米兵が遊びに出てくる。彼らも無用なトラブルは避けるし、はしゃいで飲んで終電で帰るぶんにはあまり問題がない。が、泥酔している輩になると少し状況が違う。いわゆる本場のヤンキーである。日本人でも酒癖が悪い奴は手に負えないが、この体格で酒癖が悪いと、何をやっても即トラブルになるのだ。そもそも一人で女がうろついていいような場所ではなかったと、道に迷いつつ自分の迂闊さに芯まで冷えきった涼子は、なにをされるかわからない、とその場を走り去った。

 米兵はそれを見て笑っていた。幸いにも、声をかけただけ、彼らもこんなことで謹慎をくらい、遊びに出れない週末が来るのはゴメンだ、無理なナンパなどするつもりはなかった。

 涼子が走りながら、灯りの指す通りの方へ角を曲がった瞬間に、闇の中から手が伸びた。

「こっちには、来ちゃだめだよ……」

 明るいほうへ強い力で放り出された涼子。道端に倒れると目の前に徐行していたタクシーのヘッドライトが急ブレーキの音と共に目の前で止まった。

 涼子は放心状態。立ち上がろうにも腰が抜けてしまっていた。周囲を見渡すとそこには彼女を見下す人だかり。酔いつぶれた女がタクシーにはねられそうになった。その程度の事。

 さすがの涼子も暗い道へ引き返し、犯人を追う勇気などない。

 野次馬が彼女を取り囲む中、一人路地の中。闇へ消えていくあの男の姿があった。



 遠雷が鳴り響き、突然のゲリラ豪雨に人々は蜘蛛の子を散らすように一斉にその場を走り去る。タクシーのクラクションが鳴り響く。立ち上がれないでいる涼子の肩を叩くものがいる。涼子は体が震えてしまい後ろを振り返ることもできない。が、脅える涼子を抱きしめ、かかえて立ち上がらせようとしていたのは悟だった。

 悟は黙って涼子をおぶり、そのまま涼子のマンションまで歩いて行く。降りしきる雨の中、その姿は滑稽で、ずぶ濡れの他人へ傘を差し出すことのない人々の群れを押しのける異様なオーラをはなっていた。交番の警察官も、二人の姿を黙って見ているだけだった。

 部屋までの道、涼子は悟の背中がとても愛おしく感じられ、ずっとこのまま雨がやまないでいてくれたら、もっと強くこの背中を抱きしめていても恥ずかしくない……    と、雨が強く降れば降るほど、強く、強く悟の背中を抱きしめていた。

 部屋に着くと、悟はその気持ちに応えるように、玄関で涼子を下ろすと崩れるように抱き合いキスをした。
 
 はじめは涼子もそれを受け入れていた、けれどその時、涼子の脳裏に昔のことがよぎった。キスをされながら、涼子はカッと眼を開き、悟を全力で突き飛ばした。玄関の扉に打ち付けられた鈍い音が真っ暗な部屋に響いた。

   「その優しさが大嫌いなの!」

 悟はあっけに取られながらも、いつもの涼子のことだから、今日はいつにもまして機嫌が悪いんだろうと優しく微笑み返そうとした。が、涼子の眼差しがいつもと少し違う。涼子は青ざめた顔で悟に声をふり絞りながら静かに話しはじめた。

「あんたは……自分が最後まで愛せない人にも……優しさを振りまいて勘違いをさせる。その先の責任まで考えずに。人生が狂ったのは、楓だけじゃない。」

 雷がまた一つ鳴り響いた。差し込む光が涼子の涙とも頬伝う雨の雫ともつかないその表情を浮き上がらせた。悟は直感した。この女、嘘をついている。それも小さい嘘ではなく、大きな隠し事をしていると。

「おまえ、楓の事を追いかけてるなんて、嘘なんだな」

 涼子は悟に飛びかかった。もう帰ってくれと泣きわめいた。鍵のかかっていない玄関の扉はいとも簡単に開き、外に放り出された二人。悟への罵声が豪雨と混じりあい、雨に濡れた通路に悲鳴ともとれるヒステリックな涼子の声がマンション中に響きわたった。 近隣の住人が警察を呼び、無抵抗のまま力ない涼子に叩かれ続けた悟がようやく解放される時、深夜3時を回っていた。

  駆けつけた警察官になだめられ、部屋に入って行く憔悴した涼子の後ろ姿。悟が彼女を見たのは、それが最後だった。

 悟は夜と朝の境めの時間を駅に向かい歩いていた。

 雨上がりの明け方の空は、空気が澄んでいるからなのか、ちぎれていく雲と、朝陽の色合いが美しく、誰かに見せたいと思うものだった。 けれど今、悟はこの朝陽を涼子に見せることができなかった。この空が美しくあればあるほど、悟の虚しさはつのっていくばかりだった。 


 数日後、滝は自身のバーである男に語りかけていた。

「カウンター越しの恋愛ってあると思うんですよ。そのことを結局、若い奴はわからないし、わかろうとしないから、だから、悲劇が起きた。
 
 運命の人だと思う女と、夜の酒場で、それもカウンター越しに出会うわけがない。

 横に並んでさえいれば、社長も若造も皆平等にここで酒を呑める。けれど、これが客ともてなす側じゃあ、わけが違う。酒をつぐだけに見える女も、酔っているふりをしながらずっと酔わずに、冷静に男を見てるっていうのにね。それに気づいて騙される男も、最近じゃあ減ったようなきがするな……」

 男は最後の1本のタバコに火をつけた。そう、あの、悟と涼子を監視していたあの男だ。

 男はタバコを深く吸い込んだ。

「あんたの言うそんな哲学、今のガキは持ってないだろうな。」

 煙を吐き上げながら、男は呟いた。オールドパーのロックを煽り、男は席を立つ。

 滝は黙って、グラスを磨いていた。男はさり際に一言、滝に言う。

「時間はかかるかもしれんが、だいぶ見えてきたよ。この事件のことが。あのガキは、ほんとに何も知らないんだな。」

 滝の手が止まる。そして男と目があうと、滝は黙って頷いた。

 男は、去っていった。 

 バーの中に、静けさだけが残っていた。



 二千十一年 十二月 中旬
 
 沙里と一ノ瀬(いちのせ)は、PR代理店communの会議室で、島田と上司の竹本、そしてクライアントの渡(わたり)とともに企画会議をおこなっていた。沙里の上司竹本は、したり顔で頷くのみ。ほぼ渡(わたり)の独演会状態であった。

 「この街は、広島という街は少々小さい。ですが、それだけに情報も収集しやすい。薬研堀という飲み屋街から紙屋町という中心地までの間でほぼすべてのことが足りる。誰もが、その街を目指し、夢を語り、愚痴をこぼし、噂が広がる。 これは県民であれば誰もが認める事実でしょう。その街の中で、どこでどうイベントを行えば一番効率がいいか? そんなことは言わなくてもわかりきっている。 だが、そこに入り込む隙がない。 地方というのはどこもそうですが、特にこの街は隙がない。 その中で、私が東京で活躍し名前が全国的に広まっているこの1年しかチャンスはないと思ってます。」

 沙里はあいも変わらずこの渡(わたり)という男が好きになれなかった。自意識過剰であり、なおかつ、腹が立つ事に確かに彼は全国から注目を集める起業家であった。沙里は見抜いていた、というより、見る人が見れば、渡(わたり)という男はゼニゲバの成金でしか無かった。 批判も当然のごとく起きている。 そういう中で、何をこの男が目指しているのかなどどうでもいいことではあった。 だが不思議なことに、一ノ瀬はこまめにメモを取り、島田は軽蔑の表情を浮かべながらもときおり竹本と目を合わせては頷いている。

 なんだこの空気は……

 沙里のいらだちとは裏腹に、渡(わたり)は、沙里のことが、怪訝な表情で聞く沙里のために話しているようなところがあった。

 この長く、くだらない会議が終わったとき、沙里は公然と、渡(わたり)に食事に誘われてしまった。行け、と、上司竹本に目で合図された沙里は、半ば強引に渡に同伴するはめになった。

 一ノ瀬は淡々と何かをタブレット端末に入力し、島田は竹本と談笑。誰も彼女を助けようなどとしなかった。

 丘の上、渡は広島の街が見下ろせるレストランへとクルマを走らせ、沙里をエスコートした。沙里は高級車の助士席に乗り、AUDIのエンジン音に驚きながら、曲がりくねった道を行く渡の無表情なハンドルさばきに怯えつつ、光り輝く街に時折目をやりつつ、そのほとんどは硬直した両足と、シフトレバーに気を取られぐったりと疲れ果てていた。

 丘の上のイタリアン。 それはそれは美味しいディナーなのだが、沙里にとってはこれほどの苦痛な時間は無い。なにせ、渡がなぜ自分を指名したのか、仕事の上でもプライベートでも皆目見当がつかなかったからだ。

 「覚えてますか? 僕が広島に久々に降り立ち、活動の拠点を移した時、あなたがなんと言ったか?」

 沙里は全く覚えていなかった。なんの話なのか? 竹本ともに赴任したその瞬間まで遡っても記憶に無い。

 「あなたは、この街が嫌いなら、この街に住まなければいいといった……」

 思い出した! 沙里の悪い癖だ。活動拠点を広島に移したばかりの渡のパーティーで酒に酔い、広島について語る渡の言葉が批判めいた愚痴に聞こえ、ついつい口にしてしまったのだ。しかし、その時の気持ちは今でも変わっていない。この男がこの街に住む理由など、沙里には全く見当がつかなかったからだ。

 「僕は、政治家になります。」

 この言葉に、沙里は面食らった。そもそも動転すると身動きをとれなくなる癖もあるが、この時ばかりは本当に面食らった。

 「驚かないでいただきたい。このプロジェクト、来年までかけて行うプロジェクトが終われば、僕は出馬します。 僕はこの街を嫌いなわけではない。変えなければならないと思うことが、山ほどある。国政に関してもね。」

 ここからまた、渡の独演会が始まったのだが、沙里は、この時ばかりは少し共感してしまう言葉が多かった。

 東京という街に全国民の6分の1にあたる人々が住み、日々、3分の1にあたる4千万近い人々がいきかう。誰もがその街を目指し、その街に有能な人材、権力、金、ありとあらゆるものが、集まりすぎている。 地方から変えなければ、地方から活性化させなければこの国の未来はどうなるのか? という渡の言葉に、沙里は少し心が揺れていた。 

 そもそも渡は東京の生まれではなかった。

 幼いころまでは広島で暮らしていた。 それが父の転勤とともにアメリカ、東京とわたりあるいて来たようなところがある。はたから見れば華麗なる人生でも、本人からすればそれゆえの阻害と、仲間のいない人生からくる世間への反発感と、地道な努力で今の地位を作り上げた孤独があった。

 それは人並みならぬ努力という言葉では言い尽くせないものだ。

 彼がなぜ?そこまで広島にこだわるのか? 沙里もまだよくわからなかった。ただ、この日、この男の眼差しは真っ直ぐで、本当に、なにかこの世界を変えてしまうんじゃないか?というくらいに心を刺すものがあった。

「あなたの言葉には、私は正直ショックでした。この街を思うあまりに口に出た言葉が、批判めいていたなんて。私にはもう、時間がないんじゃないかとその時に気付かされました。もし、この街でこの先3年かけていたら、私がこれまで築いたものは、跡形もなく崩れ去る。かつて東京で栄光を得ていた、ただの人として扱われるでしょう。」

 沙里の目を、渡は見つめていた。まっすぐに。

 「やれるところまで、やるということじゃないんです。 自分の可能性と、この街の可能性をシンクロさせたいんだ。この街だから出来たと、この街でやり直せたと、私は、言いたいんです。」

 その決意と、知られざる事。沙里は不安と、渡の放つ言葉の意味に強く心を揺さぶられながら、その日、寒空のもと、広島の街を見下ろしながら、渡に、不意に抱き寄せられたことを、強く、恥じていた。


 翌日、沙里は悟と二人で広島市内、紙屋町から八丁堀まで本通りを歩いていた。

 沙里は少しでも悟との距離を縮めたかった。焦りというか、公私混同しつつも悟を昼間の街へ誘いだした。普段どんな感じで撮影をしているのか、もっと企画のために知りたいと申し出たのだ。それもおかしな話ではある。渡(わたり)が持ちかけた企画通り、ウェディング用の撮影をすればいいだけの話だし、悟の創作活動の一端を、いつどんな時にシャッターを切りたくなるのかなんてことは、全く仕事とは関係がないからだ。

 悟は何も考えていないのか? すんなりとOKして街へと繰り出してきた。

 悟の少し後ろを歩いている沙里は、ずっとこの本通りが続けばいいのにと思うくらいうれしくて仕方がなかった。そして昨晩の事が胸を痛めた。別に渡(わたり)に抱きしめられただけで、抱かれたわけではないけれど。

 悟は意外と足早に歩いて行かない。 ふと立ち止まると、暫く何かを見つめ、また、歩き出す。その何かを見つめる横顔が、沙里にとっては美しく見え、このうえなく幸せな時間が訪れていたのだが、何度目かの後、悟は人す筋を裏通りに入ってしまった。

 「人通りが多すぎじゃよね。わしゃこっちんがすきなんよね。」

 悟はぶっきらぼうにそうつぶやくと、袋町へと歩いていく。
 これまで特に通りを意識したことがなかった沙里にとっては新鮮だったし、どうしてこの通りが好きなのかは、自ずとわかった気がした。
 小学校があるのである。街の商業エリアのど真ん中に、小学校。すごくきれいな建物で、嘘みたいに大きなグランドが広がっている。

 「ここに入って遊んでみたいと思わん? 絶対無理じゃけどさ、大人になったら。今の学校は校庭開放してないけえ。」

 シャッターをここで切るんじゃないか? と沙里は思った。けど悟はカメラを出そうとしない。そしてまた暫く校庭を眺めた後、また歩き出した。 沙里は悟の言葉に頷きながら、ただただ、後ろをついていく。

 人通りというものはひとすじ違うとこんなに無くなるのか?というくらい、平日、昼間の袋町は人気が少ない。クリスマスムードも、街には特に無い。

 ただただ澄んだ空気が、あたりを包み込んでいて、吸い込む空気の冷たさだけが沙里の頭を冴え渡らせてくれていた。

 その先を歩き、八丁堀までついた時、新天地公園の手前で悟は立ち止まり呟いた。

 「この先に行くんわ。まだ時間が早すぎるかの」

 そう、この先は流川、薬研堀という飲み屋街、いわゆる夜の街だ。渡(わたり)が昨晩話していた、噂が流れやすいエリアを、紙屋町から歩いてきてしまったことになる。

 この距離、紙屋町から八丁堀まではほんとうに短いのだ。
 歩いて普通に誰もが闊歩できる。ほんの30、いや一目散に本通りを突っ切れば15分程度か? 悟の気まぐれで、一つ通りを裏に入ったからといって、誘いだしたわりには一瞬だったなあ、と、沙里は物足りない思いを噛みしめる奥歯に感じながら、悟の次なる行動を待とうか、お茶にでも誘おうか、この一言を悟の背中を見ながら言い出せないでいた。ここでも沙里は迷う人なのだ……。

 「あがろうか、上へ!」

 悟は沙里の手をとった。

 何を言ってるのかよくわからないまま、いまどうして手をひかれてるのか、そのことも理解できないまま、沙里は、悟に手をひかれ、そう、しっかりとてを繋がれ、随分と今度は横に移動する。
 
 八丁堀の端から端へ、道を行くビジネスマンの視線が恥ずかしいくらい昼間っから手を繋がれて引っ張られていく。沙里は下を向きっぱなしだった。 誰かに見られていたらどうしよう……。という思いも虚しく、その姿はしっかりと数名の同僚に目撃されてもいたのだが。

 5分程度だろうか?小走りに連れて来られたのはとあるビル。悟は沙里を引きずりながらエレベーターに駆け乗った。

 「空が意外と見えんと思わんかった? 紙屋町のちょっと前に、 原爆ドームがあるところ、あそこに相生橋っていう橋がある。そこからは空が広く抜けて見えるんじゃけどね。不思議なもんで、そこからここまでの間って、橋がないんよ。そうすると、急にビルに囲まれて、空がえらい狭もおなるんよ。本通りのアーケードも悪くないんじゃけど、あそこなんかもう通りに屋根があるけえさ、空がなんか、急になくなったみたいに思える。じゃけえ、ひとつさっきも裏通りに入ったんじゃけどね。 ここまで来ると、今度は逆に、このビルの屋上しか、空が見えんのよ。」

 悟はせきを切ったように話し続けていた。さりの視線にはエレベーターの最上階近くのボタンが押されたことが目に入り、続いて各階のインフォメーションが目に入った。
 そのビルには映画館が入っていた。東京でも単管で流れるようなこだわりの映画が上映されていた。沙里もこの街に住み始めてから何度かその老舗の映画館には来たことがあったし、ああここか!と、このビルのことは知っていたけど、その映画館より上の階に、悟が言う空が見える世界があろうなんて思ってもみなかった。ビヤガーデンなんて季節でもないし。

 屋上の一つ前でエレベーターを降りる。そこはなんとも入り組んだ場所。商業施設が入り、その先に、飲食街があるのだが、そこへの連絡通路がなぜか一区画だけ空へと通づる場所なのだ。屋上でもないのに、ただそこだけ、なぜかワンフロアだけ屋外なのだ。

 こんなことに気づいている人がどれだけいるんだろう? 

 冬の午後15時。

 ゆっくりと降り始めた太陽が、真っ青な空に揺らぎながらこちらを照らしている。

 「冬の空のほうが、より赤く染まるような気がするんよね。」

 悟はiPhoneをジーンズのヒップ・ポケットから無造作に取り出すと、シャッターを切った。

 沙里は今日はじめてのシャッターが、彼の一眼レフではないことに驚いていた。そして、少し凍てついた唇が、時折ふく風邪に震えるように声を出した。

 「どうして……シャッター……この一瞬、だったんですか?」

 悟は吸い込んだ息を、深く吐いた。

 「なんども切ったよ、シャッターは。小学校でも、この目に。」
 
 悟はiPhoneに視線を落としながら続けた。

 「今伝えたい一瞬を、この世界に伝えるには、この道具はとてつもなく便利で、わしの思いを、わしのちっぽけなこの思いを、なんとか、この世界に届けようとしてくれるんよ。」

 沙里は悟が思ったより、iPhoneのような流行りの道具を使いこなしていたことに驚いたし、彼が本当に思いを伝えたい相手が、まだ自分以外にもいること。気持ちが自分の方に全部向いていないんだと、再確認してしまったようで、とても切なかった。

 あの日、新己斐橋の上で悟に撮られた写真の出来栄えに、心を奪われた自分としては、なんだかとても悲しくて、その場を走り去りたかったけど、沙里は、ただただ、悟の横顔を、じっと見つめることしか出来なくて、次の言葉が出てこなくて、悟が見つめるiPhoneの視線の先が気になって仕方がなかった。



二千八年 八月 

 悟のベットに潜り込んで、まとわりついて眠り込んでいる彼女はレイカ。

 どうしてこうなったのか? 悟にはなんとなくわかっていたけれど、レイカの行動の全ては悟の予想をはるかに超えていて、とんでもなく自由奔放で、いつも心ここにあらずだなあと、レイカを抱いていても感じて、いや、とらえどころがない、悟からするとものすごくこれまで付き合った女性の中でも難しく、かと言って、何も過去のことを聞いてこないレイカの存在はただただ元気で、その頃の悟にとっては都合が良かったのかもしれない。

 広島市内は八丁堀、本通りの最初で最後にある街の中心アリス・ガーデンのイベントで、ギターを手に歌うレイカを始めてみた時、その時から、悟の人生は少しずつ上向きに変わっていった。

 だからこそ、しばらくの間、二人は寄り添い合っていた。

 


 




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