2013年6月7日金曜日

一ノ瀬みかこ(いちのせみかこ)の思い




 翌朝9時頃。カーテンを締め切り、ひとすじの光も入らない部屋に、シャワーの音が豪雨の如く響いいている。1Kにしては少し広めな八畳ほどの和室部屋を丸く、薄オレンジがかったルームランプが小さく照らす。敷きっぱなしの布団の横で、黒く四角い、冬はこたつにもなるテーブルがひとつ。その上に昨晩着ていたブラウスなどが脱いでそのまま重ねて置いてあった。



 一ノ瀬(いちのせ)は体を拭きながら浴室から出てくる。短く切った髪は後ろをスッキリと刈りあげていて、タオルドライでじゅうぶん乾くほど。使い終えたタオルは玄関横に置かれた洗濯機の中へ放り込む。そこからは流れ作業の休日が始まる。部屋に戻るとテーブルの上にある服をエコバッグの中に放り込む。 スーツのジャケットは表裏目を通し「まだいける」とつぶやくとハンガーに掛けカーテンレールにかけた。押し入れを開けると畳んで重ねて置いてある下着や洋服を適当に選んで着こむ。特にこれとこだわった様子はない。

 携帯をジーンズのポケットに放り込むとダウンジャケットをはおり、エコバッグを肩から下げて玄関へ、扉を開けると強い日差しが飛び込み、一ノ瀬は怪訝な顔をした。

 「あ、メガネ、、、」 

 駅までの道沿いにあるクリーニング屋に立ち寄り洋服を出す。下着以外はほとんど店に出していた。単にズボラというわけでもない、ブラウスは10着出せば料金は3割引きになるし、自宅で洗うより綺麗に仕上がる。 なによりビニールから出すときの新品感が彼女にはたまらないからだ。 エコバッグを小さくたたむと、ダウンジャケットのポケットに放り込み、機嫌良さそうに駅へと歩き出す。

 一ノ瀬(いちのせ)もまた市内電車が好きで、座っていればとりあえず街中まで連れて行ってくれるこれを好んでよく利用した。電車内、彼女はメガネを外すと緩んだネジにグラグラと揺れるテンプルを見つめていた。次は紙屋町西。ほぼすべての乗客が降りる広島の中心地だが、一ノ瀬は車内に一人残り、その先の先、広島大学の跡地の公園に向かった。





二〇〇六年 四月

 悟は少々困っていた、滝からの紹介で市内にある写真専門学校から、職場研修という形で学生をバイトで何人か入らせてくれないか? というのだ。それであれば大手の写場やフォトスタジオのほうがいいのではないか? と話したのだが、職場体験は1つの職場で1人から多くても3人が限度。その上雑用ではなく、生の現場を見せて上げてほしいと懇願されていた。 渋々了承したものの、面接というものも出来ず、どんな子が来るのかわからないまま、悟は1人だけという約束で学生を受け入れた。それが当時18歳の一ノ瀬との出会いだった。

 広島市内にある広島大学の跡地は、市民に開かれた公園で、背の高い銀杏並木が並ぶ先に広大な芝生、赤レンガの旧大学建物という自然と少しレトロな建物のコントラストに晴天時には空の青が栄え渡る爽快なロケーションだ。ここで写真撮影をするカメラマンはプロ・アマ問わず多く、特にウェディングの前撮りと呼ばれる挙式前の記念撮影はここが使われる事が多い。悟もこの手の仕事を請け負うときは大抵ここを使った。市電でもクルマでもアクセスしやすく、市内のロケーションとしては申し分ないからだ。

 そこに一ノ瀬が父親の運転するベンツに乗って現れた。悟は初見でこれはダメだと思った。自分はフィルム式のカメラ、彼女は出始めたばかりの最新機種のデジタル一眼。父親は満面の笑みで娘より前に出て両手で握手をしてきた。よろしくお願い申し上げますもなにも、僕がこの子の才能を引き伸ばすも何も、一流にしてあげられるわけじゃない。見学だとばかり思っていた悟は、シャッターを横で切られたらたまったもんじゃないと思っていた。その上また馬鹿げた話が、この父親がすぐに帰らない。ヘアもメイクも完成し、ブライダル・プランナーとともに撮影する新郎新婦が来ても、ずっとそばに張り付いているのだ。

「今日はよろしくお願いします。娘が職場体験をさせていただけるということで。」

 悟より先に新郎新婦に切り出す父親に悟は驚き慌てた。意味がわからないという顔の二人に悟は間髪入れずに割り込んだ。

「娘の職場体験みたいな緊張をしてるっていう感じというか、この方はこの公園の管理の方なんです。ほらリラックス、リラックスして行きましょう!」

 悟のこの言い訳もわけが分からないが、なんだかテンションが高い悟にとりあえずごまかせた感はあった。一ノ瀬の父親は悪びれもしていない、この空気を察知してもいない、悟は職場体験は伏せて、後ろで見ていてくれと耳打ちしたが、笑顔のまま「それがどうした」という感じで大きく頷いているだけだった。

「みかこ!なにしてるんだ引っ込んでないで、一緒に撮りなさい。」

 学校に入っていきなり父親から高級デジタル一眼レフカメラを買い渡され、どうしていいかわからない一ノ瀬(いちのせ)みかこがそこにいた。 悟の目を見ることも出来ない彼女が父親に背中を無理やり押されている。

「あ!それ、僕も欲しいんですよ!!」

 新郎がなぜか一ノ瀬の持つデジタル一眼レフに食いついてしまった。一ノ瀬の父と新郎がなぜか盛り上がり始めてしまい、今日の撮影プランは無茶苦茶になった。 フォトグラファーはただシャッターを切ればいいというものではない。最高の笑顔とは簡単に言うが、まず2人で撮影を開始し、気分が盛り上がるまでは会話を楽しみながらシャッターを切りまくらないと被写体が高揚してこないのだ。目の前でフィルムを交換して大げさに見せるのも大事なアピールで、現像するまで撮られている本人が確認できないからこそ言葉、会話が重要で、悟という写真家を信じて、信じきって、初めてレンズ越しに目があうようになり、いつもと変わらぬ自然な笑顔が引き出せるのだ。ウマイこと言いすぎてもダメで、嘘は直ぐにバレてしまうし、とても気を使いながら導いていく作業。いわばディレクション「導演」というものがそこには存在しているからだ。

「移転前にはここの大学の教授と知り合いでねえ」

 一ノ瀬の父親の話を聞けば、どうやら大学関係者というのは悟の口から出たでまかせと一致はしているようなので、とりあえずほおっておいた。心配そうにしている悟に今度は父親が耳打ちした「大丈夫です、わかってますから」え?嘘なのか?どこまでがほんとなんだ?全くなにがわかっているのやらと思いつつ、悟は大きなため息をつき仕事に入った。とりあえず新婦から撮ろう。今一番ないがしろにされている、可哀想なドレスの女性をヒロインにしてあげないといけない。

 悟は俯いたまま父親に背中を押されとぼとぼと悟についてくる一ノ瀬みかこに、少しでも役に立つよう、こう助言した。

 「ごめん、君をかまってられないから、なんでもいいから撮影してて。僕の後ろからにしてもらうけど、僕の言葉をよく聞いてれば参考になるから」

 悟は一ノ瀬にそれだけ言うと新婦に語りかけながらシャッターを切り始めた。

 なにをしているのか、うまく顔をあげれない一ノ瀬は、カメラを握りしめていた。するとしだいに笑い声が大きくなっていくのに気づいた。耳が反応した。そしてなんだか、こっちまで胸が高鳴るのを感じて、一ノ瀬は伏せていた目をこわごわ上げた。初対面にもかかわらず、5分としないうちに新婦の笑顔を引き出した悟のやりとりに、人との会話が世界が色づくほど魅力的に見えた。

 言葉で、人が笑い、人が照れ、顔を赤くし心から喜んでいる姿を見たことなど、それまでの彼女の生活にはなかったことだった。

 どうして私には友達がいなかったんだろう。

 一ノ瀬の頭をふとよぎったその言葉の理由が次々と目の前に現れているようにも見えた。それは会話。まさしくそれができていないことに全て原因があると思えた。中学でいじめにあった経験を持つ一ノ瀬はなにを言っても嫌われる、嫌がられる、と思い込んでいたのだった。 彼女はこの状況を見逃したくなかった。この状況をしっかりと自分のために残しておきたくなった。 

 一ノ瀬は生まれて初めてシャッターを切った。

 夢中でシャッターを切りまくる一ノ瀬の高級デジタル一眼は、シャッター音が驚くほどいい。 ピントを合わせる度になるピコンという電子音がまたよく響いた。悟からするとこれでまたテンポが狂い始めてはいたのだが、その音に高揚する新婦をフレームに納めることに自身の体制をシフトすることで、なんとか場をつないでいた。

「OKです!よかったですよ。その感じで今度は新郎さん入れて一気にはしゃいじゃいましょうか!」

 悟が振り返ると、新郎は一ノ瀬の父親と2人、一ノ瀬がもつ高級デジタル一眼レフに夢中だった。理由は単純で、液晶画面の撮影後プレビューに目を奪われていたのだ。 悟からしてみれば嘘としか思いたくない光景だった。その場で写真が見れたりしなくていいのに。 しかもその写真には悟が写り込んでいる、というより、悟がメインに撮られた写真ばかりだ。一ノ瀬は悟にしか興味がなかったのだから。

「これ、どういうことですか? うちの嫁写ってないし、ピンとボケてるし、そっちのカメラのは見れないんですか? 確認したいんですけど。」

 新郎が不満げにこぼした。その言葉に慌てながらブライダル・プランナーは悟を睨んでいた。そこに追い打ちを掛けるように、一ノ瀬の父親がバカなことを言う。

「それフィルムでしょ? 今時それじゃあ撮ってすぐ確認できないよねぇ。だいち写ってんのかっていう話だよねえ?」

 この言葉に新郎新婦の笑顔は完全に消えてしまった。そしてなにより悟もさすがに若かったし、一ノ瀬の父親に怒鳴りそうになった。まさしく「何もわかっていない!」と。しかし誰より先に、声を上げてしまったのは一ノ瀬みかこだった。

「お父さん仕事のじゃまをしないで!」

 一ノ瀬は泣いていた。 もうどうにもならない空気がそこにはあった。

 専門学校の職員室で、晴天の午後、腕を組んだまま悪いことはしていないという態度の一ノ瀬の父親と、事情を冷静に解説する悟。駆けつけた滝の姿があった。

「とにかく、僕は仕事を潰されたわけで、今後ウェディングの仕事が来るかどうかも、これでわからなくなったんです。父親まで出てくるなんていうのは、さすがに聞いてない。」

「お前がボロのカメラ使ってるのが悪いんじゃないか。だいちフリーってなんだそれは。こっちは学校の先生だと思ってたんだ。じゃなきゃお前みたいな勘違いした若造に娘を預けたりするか!」

 親の言い分が学校という組織の中では何より重い。

 だからこそ現場にしゃしゃり出てくるなというのが悟の本音で、それが世間の本音なのだが。それを援護するかのような学校の言い分もあった。

「私共としましては、大変失礼な結果になったことは遺憾におもいます。が、学校というところは、親御様から大切な生徒を預かり、その上で、きちんと社会に送り出さなければならない場所なんです。そのために今回実施ったのが職場体験でありまして、専門学校というのは、わずかに2年しか無い。夢だとか、そういったものには1日も早く目を覚ましてもらおうという狙いもあるんです。」

 この言葉に悟は唖然とした。滝は悟の代わりに、いや紹介者としてそれ以上に怒りをあらわにした。

「それは違うだろう! 現場でどれだけ努力をしてるのか、それを少しでも持ち帰ってもらって、夢を現実の物として持ち続けてもらうための場じゃないのか?」

「それじゃあ生きていけないでしょう!?」

 学校側は自分たちの考えを曲げなかった。預かった子どもたちの就職率も学校の評判に影響をする。写真という技術を学んだことはその子の経歴のひとつ。それを経歴として持った上でどこでもいい、就職が決まってさえくれればいいという考えだった。

 現役のカメラマンである悟からすれば、これと決めた道を歩くために広げる人脈の大切さや、シャッター切る事以外に学んだことなど、その全てが大事だというのに、後輩にそれを教えなきゃならないとか、それを現場でどう体験してもらうか? ということばかりを考えていたのに、自分の人生それすらも否定されたような気がしていた。

 悟は無言で立ち上がると、挨拶もせず職員室を出た。すると部屋の外で一部始終のやり取りを聴いていた一ノ瀬みかこがそこにいた。悟の目を、見ることが出来ずにうつむいていた。 悟もまた、声もかけずにたち去ってしまう。

 しかし彼はすぐさま帰宅し、現像作業に入った。今すぐやらなければならないことを優先したのだ。普段は業者に任せるが、今回は特別だ。自分で現像液の配分から、どれだけの時間現像液につけるか? それら全てを行う。自分の納得の行く色が出せるまで、できるだけ早く、しかも手を抜かず、今日迷惑をかけた新郎新婦のもとに届けるために。 

 フィルムの良さはここにある。誰もが出せない色を、この段階で悟自身が作り出すことができる。フィルム現像は生物であり、人間のもつ心が反映されるかのように、最適な現像薬品、調合法、調合料を自身で決断し決めていく。トライアンド・エラーは当たり前の世界。面倒だからこそ、それを最後までやり遂げる情熱が必要であり、写真に自分の思いを込めていく作業は紙に焼き付け人前に出す最後の最後まで続いていく、精神力との静かな戦いなのだ。


 翌日の昼頃、昨日の新婦が新郎をカフェchaton(シャトン)へランチに誘った。 

 なんでこんな郊外のカフェに?と思いつつ、新郎は会社の車を飛ばし、外回りのついでに立ち寄った。新婦はテーブルに付いており、 満面の笑みで目に涙を浮かべている。

 chaton(シャトン)の店主、美幸は、黙って新婦の横の席に手を差し伸べる。どうぞこちらへと。

 新郎、新婦が座った席の先には昨日撮影した写真が大きく引き伸ばされ、ナチュラルな天然木の額縁に入れられていた。

 澄み切った青い空に、冬の芝生はオレンジで暖かく広がり、その奥にある赤レンガの建物は気持ちくっきりと強調され、背の高い12月銀杏は金色に輝いていた。そしてその中心に、浮かび上がった新婦の姿は、ウェディング・ドレスに織り込まれたキルトの模様まで細かく、きっちりと見栄えし、波打つドレスの流れはぼやけ気味に風景に溶け込む。

 新婦が着ていたのはヴィンテージ・ウェディングドレス。

 流行り廃りのないもので、冬場の屋外でも温かみを感じる70年代のガニーサックス。アイボリー色が特徴的なドレスで民族衣装的であり、一見カジュアルな洋服のようにも見えるのだが、手にもつユリの花で作られたブーケの白が印象的に引き立っている。

「もう一度、僕に撮らせてもらえませんか。」

 新郎新婦が振り返ると、そこには頭を下げる悟がいた。

 悟の申し出を断る理由など、そこには何一つなかった。


 その日以来、悟がウェディングの写真を撮影していると、いつも公園の隅で悟の姿を見ながらシャッターを切る一ノ瀬の姿があった。悟もはじめは気づかなかったが、次第にフレームに入り込んでくる片隅の小さな一ノ瀬に気づいた。

「そんな望遠、使いこなせないだろ?被写体に近づかないと、いい写真は撮れないよ。」

 悟は一ノ瀬に声をかけると、名刺を渡した。

「興味があればここへ。教えられることは、僕が教えるから。」

 目を伏せたまま、渡された名刺を見つめて動けなくなっている一ノ瀬、なんて声を返したらいいのか、全くわからなかった。

「それと、メガネ、買いなさい。コンタクトだと多分厳しいから、まあ、メガネでもあれだけど、そのデジイチの液晶があれば、ピントは多分合わせられるから。」





現在

 一ノ瀬は公園のベンチに座り、修理したてのメガネをかけて、まっすぐ前だけを見ていた。 結局、一ノ瀬が興味を持ったのは悟自身で、悟の声で、悟との会話が、世界を広げてくれたから、彼女はこの世界を今も直視できる。

 彼女は悟の写真がもっともっと見たかった。


 人気の少ない12月の肌寒い公園が、とても暖かいのはその思い出のせいで、写真の道を諦めたけど、違う形で関わりたいと思う自分の生き方に、誇りを持とうと決意する。

 一ノ瀬(いちのせ)みかこにとって、この公園は、そんな思い出の場所だ。

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