2013年6月7日金曜日

再起の一言




 滝のバーで、胸とあごを突き出して沙里は上から目線の渡を真似している。ちょっと振り返りぎみの姿を何度もしつこく繰り返しているのだが、表情が繰り返すたびに滑稽にひどくなっていく。

「こうですよ、こう! この街にうんたらかんたら! とか言っちゃうの!」

 酔っ払う沙里を白い目で見ながら他のお客が帰っていく…….。滝は酔っ払った沙里のことよりも他のお客の対応に必至。もうどうでもいいやこの娘と言わんばかりに沙里を押しのけカウンターを飛び出していった。

「タイミングの悪い……」



 滝がそうこぼす、と、入り口には帰る客と入れ替わりに悟がやってきた。店に入ると伏せ目がちにカウンター奥、ライトも当たらないような薄暗いところに悟は座る。

 滝は騒いでいた沙里がキョトンとしつつカウンターの席に腰掛けたのを見守りながらふと気づいた。「そういえば沙里ちゃん、まだ悟の顔知らないんだ」であれば、このままそっとしておいた方がいい。こんな日に再会するならうまく話をそらしてしまおう。

「マスター、バージン・ブリーズ」

 悟はマルボロを口に咥えると、iPhoneの画面を見つめていた。

 滝がすました顔でロンググラスに氷をいれる。クランベリージュースのボトルを出して、氷をステアして、固まった。悟はその様子を見ている。沙里も聞いた事のないお酒の名前に興味津々でカウンターの中を覗き込んでいる。沙里の視線にやりづらそうに、滝が苦笑いを浮かべながら呟いた。

「そんなに見つめなくてもいいじゃない……」

 悟がふと滝の方へ目を向けると、どうも作り方がおかしい。

「シェイク、するんじゃないっけ?」

 その声で、沙里はじめて悟の方を向いた。片隅のシルエットからタバコの煙が上がる。

 滝は慌ててグラスの氷を捨てるとそそくさとシェイカーを取り出した。

「グラスを冷やしてたんだよ。あれだ、どうせ長居するんだろうから、今日はロングにしてやるから。」

 iPhoneの画面の明かりが悟の顔を浮き上がらせる。悟がじっと見つめるそれが何なのか?沙里は気になった。お酒にも詳しい、顔もそんなに悪くない。スタイルも長身でそこそこいい。 

 滝はシェイカーを振りながら心の中で「やめなさい、沙里ちゃんやめなさい。あんまり興味持ちなさんな!」と思えば思うほどにシェイカーを大きく、大きく振りまくった。そのオーバーアクションにまた二人が滝をじっとみつめた。

「そんなに見つめなくてもいいじゃないか……」

 滝がロンググラスにカクテルを注ぐ。沙里はカクテルに目を奪われたまま、悟に差し出す手を追う。が、悟はすぐにカクテルを飲もうとしない。

 気になる!気になって仕方がない、このカクテルどんな味なの? 沙里はとうとう悟に声をかけてしまった。

「 それ、飲まないんですか?」

滝はいつもより即行動に出る沙里の酔いっぷりに驚いて、流しにシェイカーを落としてしまった。その音に悟は顔をあげる。沙里が近づいていく、よく見ると悟はイヤホンをしていたのだが、今の音で差し出されたカクテルに気づいたようだ。iPhoneをカウンターに置き、イヤホンを外す。沙里は悟の隣に座った。

「あの、そのお酒……」

悟は不思議そうな表情で沙里に答える。

「え、あ、まあ、これお酒じゃないけえ。」

けれど目を合わそうとはしない。酔いのせいもあるが、普段とは違い積極的になっている沙里。悟はそういう女性が少し苦手だった。

すかさず滝が割って入りカクテルの説明でごまかそうとした、その時。 

「え!盗撮の人!!」

 カウンターに置かれたiPhoneの画面は沙里の寝顔を鮮明に表示している。

「ちょっと、何気どってんのよ!? こないだ写真撮ったのあんた? 説明しなさいよ!」

 悟は驚くと同時にはじめてきちんと沙里の顔を見た。あの時のあの娘がいる。悟は嬉しくて、じっとみつめたまま湧き上がる喜びで表情が自然と緩んでいく。 沙里からすれば本当は腹立たしいはずなのに、写真を自慢気に見せる悟の笑顔が無邪気な子供のようで愛くるしく見えてしまった。怒っていた沙里はその表情に押し切られ、困りながらも少しだけ悟につられて笑えてきた。

 一瞬だった。沙里の悟を気になっていた気持ちと、悟の登場によってペースをすべて持っていかれるこの感じ。二人の波長がいい具合に絡み合う。そこから会話は思いの外に弾んでいった。

「こないだ話ができんかったけ、あんたあ好きな酒飲みんさい。お詫びにわしがおごるけえ。」 

「わし?」

 髪を振り乱していた酔っぱらいの沙里は髪を手櫛で急いで直した。まだ不慣れな広島弁が一つでも出てくると、怒られた!と言う感じがしてしかたがないのだ。

 「じゃけえ、わしがおごるけえ。飲みんさいや。」

 悟のそっけない言い方に怒られた、と思い固まっている沙里。と、滝が冷静に翻訳。

 「ですから、僕が一杯おごりますので、気にせず飲んでくださいよ。と。これは普通ね、怒ってないから、大丈夫だから。」

 沙里は、半泣きになりながら。

 「なんか、かなり恥ずかしくないですか? わたし」

 その動揺っぷりに、悟は思わず吹き出して、

 「なんか面白いねえ、あんたぁ。じゃあ、乾杯から。こないだのお詫びもかねて。」

 滝が沙里に差し出したカクテルはシーブリーズ。滝の目には息の合うカップルに見えていたのだろう。80年代のディスコシーンのような古臭さはあるのだが

 それから何時間話していたのか、沙里は自分の仕事の事を延々と語り続けていた。クライアントや上司のものまねをしながら。悟と滝はそれを笑いながらずっと聞いていた。



 そしていつしか朝が来る。沙里と悟は駅へと向かい、ずいぶんと長い距離をふらふらと酔い冷ませながら歩いていた。沙里の自宅方向と、悟が利用する西広島駅が同じ方向だったのだ。 あれ程お酒が入り弾んでいた会話も、夜明け前の冷たい空気が少しずつ気恥ずかしさを取り戻させ、沙里の表情をこわばらせていた。だって、やっぱりちょっとはしたないじゃないか……

 市内電車もまだ走っていない。タクシーに乗るような距離でも無い。二人は無言のまま歩いていた。

 西広島駅の手前、だいぶ海に近くなった事で広がったデルタの川幅にかかる、ひときわ大きな橋がかかっている。新己斐橋(しんこいばし)その上を悟が少し先、距離を開けながら歩く。橋の歩道は柵が低く、時折強めの風が沙里の髪を吹き上げていた。朝陽が登りはじめ、一筋の光線がキラキラと沙里の足元へと差し込んできた。その光は沙里の全身を包み込んでいく。その強い光を手で覆い隠しながら、沙里は橋の中央で歩くのをやめた。

 朝陽は夕焼けのそれより数倍強い力を放ち、世界が強いオレンジに染まる。空は澄んだ空気とともに真っ青に広がっているのに、そのオレンジの光は海から浸透していくように、地上の世界を暖かく包み込んでいく。

 沙里は朝の空気を吸い込んでみた。鼻の先から頭の中がスッキリと澄み渡り、体は何かを始めなきゃいけないという気持ちで満たされるのか、かかとが浮き上がる勢いで自然と大きく背筋が伸びた。



 早朝のカフェchaton(シャトン)。看板すらまだ出ていない店内で、コーヒーを飲む滝と美幸。

「これで一歩、あいつも踏み出してくれるのかな。もうそろそろ、忘れてもいい頃だろうし……」

 美幸は壁にかけられた写真を黙って見つめたままだった。

「またあいつが写真を撮ったよ。酒も飲まずに会話も楽しんでた……」



 シャッターの音がした。沙里が振り返ると、悟が一眼レフで沙里を捉えていた。ゆっくりとファインダーから悟が顔をのぞかせる。朝陽がその真剣な眼差しに差し込んでいく。

「君を、ちゃんと、撮らしてくれんか? 」

 全身の新鋭が研ぎ澄まされる朝の空気の中で、沙里が返す言葉を探していると、悟は笑顔でまた一枚シャッターを切った。そしてその音は、沙里の心に響き渡った。

「広島弁、ホンマにまだわからんのじゃね。驚いた顔が面白いわ。」 

 照れて笑う沙里。笑顔で返す悟。ほんの数十分間の出来事。沙里にとっては一生を変える出来事が、その朝、起きた。

 悟にとっては、再起の一言が出た瞬間でもあった。

0 件のコメント:

コメントを投稿