2013年6月20日木曜日

町と闇



 夜、悟は涼子とよく行く小じんまりとした居酒屋にいた。飲み屋街にある居酒屋というのは、一つ裏通りの隅の方にあるもので、街の片隅にポツリとある赤ちょうちんのそれと同じく、その町で働く人々を別け隔てなく受け入れる灯りであり、こういう場所の居酒屋は普通の客というよりは出勤前の夜の蝶や、店のオーナーなどが多い。
 悟はと言えば、よく来る変わった客の一人で、何度通おうと、この町の住人としては受け入れられていないような存在だった。なぜなら、彼はこの町にとって客であり、この町で商売をしている仲間ではないからだ。そういう男に居酒屋の店主も話しかけたりはしない。



「熱燗」

 前日、明け方まで悟と涼子を監視していたあの男が店に入るなり慣れた口調で熱燗を頼んだ。悟とは対角のカウンターの隅に座る男。小さな居酒屋の隅と隅に暗い影が落ちた。

 程なく涼子がやってくる。いつものことで、必ず彼女が遅れてやってくるのだ。いつもの!と言えば酒とツマミが出てきてもおかしくはないのだが、居酒屋の親父はいつも必ず「なんにしやす?」と聞き返す。涼子は毎度、焼酎とおでん盛り合わせ、煮玉子は嫌いだから入れないで、という。おでんで煮玉子を食べない。こんな個性の強い女のオーダーを、店の親父は受け入れ、そしていつも、聞き流していた。

 今日Chatonに行ったこと、そこで滝に会えたことなど、涼子は事細かに話した。悟はその日に何を彼女が掴んできたのか、黙って聞いている。そして、いつも飲み過ぎてしまう。そして今日は不思議だなと思っていた。涼子と出会って1年弱、これだけ情報収集能力があるにも関わらず、まだ核心に迫れないでいる彼女は、果たして本物のジャーナリストなのか?いかに足で稼ぐとはいっても、あまりに時間がかかりすぎている。

 大根、はんぺん、つくね串。おでんを食べ始めたらそればかり食べてお酒を飲むことをしない。意外なことに、喋りながら話すこともあまり得意ではないらしい彼女が食事に集中している隙に、悟は話始める。

「なにがそんなに気になるん?結局、楓のことにゃ最近あまり触れとらんみたいじゃし」

「それ、、、3回、、、目」

 そう、悟はここ最近それが気がかりだった。結局のところ、どうも話が違うのだ、涼子は楓のことを追いかけてはおらず、他の何かを追いかけているように思えた。
 
 おでんを食べ終えて焼酎を冷で一口飲むと涼子は少し苛立ち気味に話し始める。

「女の線からは何も見えてこないのよ。結局、楓という女のことをだれも知らないんじゃないかっていうくらい、口をつぐむ。特にこの町の人達は知らぬ存ぜぬしらを切り通してる。あの日事件を起こした男がまだ捕まってもいないのに、この町のどこかにいるかもしれないのに。一体誰が事件を起こしたんだと思う?」 

 その言葉に反応したのは昨晩のあの男だった。熱燗を煽り、目だけがこちらを凝視している。悟はふと、その男と目が合った。 


「誰が事件を起こしたのか? それを掴んでるのか?」

「まだ、よくわからないけど……」


 悟はその男と目があったまま呟いた


「1年以上追いかけてて?そうか、メモも取らないんじゃあ、なかなか前には進まんよな」

 悟は決定的なことを口にした。あのよく喋る涼子はたたみかけるように息巻いた。


「プロはメモなんか取らないわよ!あんたも、この街の人間も、もうとっくに私のこと気づいてる。なのにみんなしてだんまり決め込んでさ。そういうことされてるから、回り道しても犯人捕まえたいと思うんじゃない。本当のこと知りたいと思うんじゃない。あんた毎晩飲んでて、楓の事なにが分かったの? それに忘れようとだってしてる。自分のために。忘れたほうがいいと思ってる。 そんなの、私は許したくないの。」

 涼子はいつも怒りだすとその場からいなくなる。

 出て行く涼子の後を追うように、あの男も出て行った。カウンターにはくしゃくしゃの1000円札。

 男の事が少し気になったが、悟は後を追わなかった。今夜は涼子のマンションに止まらなくてよさそうだと、そちらのほうが大事で、こうやって涼子の気持ちの一端を引きずり出そうとすれば、そのうち彼女は目の前からいなくなる、そのほうがいいと思っていたからだ。人の心の整理がつかないところに、土足で踏み込んで演説をして帰っていくような女、自分には到底理解できそうもないと、悟はある意味諦めていた。たとえ向こうが自分の事を理解しようとしていたとしても。

 店の親父が黙って空になったおでんの皿を片付ける。
 

「めんどくさいオナゴ(女)じゃねぇ」

 親父は一言いうと、悟に黙って注文されていない熱燗と煮玉子を出した。

「いいの?」

「ええよぉ」

 煮玉子を箸で割りながら、悟は少し、この町に受け入れられた気がしていた。 


 怒って足早に自宅に向かう涼子は酔いが早く回ったのか、思わぬ場所で道に迷った。一箇所曲がり角を間違えただけで、風景が変わってしまうのが夜の街の怖い所で、よりにもよって、彼女は抜けた先も闇という、ビル群の一角、コインパーキングが広がる場所へ出てしまった。

「What’sUP?」

 後ろから突然の英語に肩がすくんだ。振り返るとかなり酔っ払った外国人2人組がいる。屈強な体つきとタトゥーを見て、ひと目で米兵だと気づいた。広島には隣の山口県岩国市にある米軍基地から週末ともなれば米兵が遊びに出てくる。彼らも無用なトラブルは避けるし、はしゃいで飲んで終電で帰るぶんにはあまり問題がない。が、泥酔している輩になると少し状況が違う。いわゆる本場のヤンキーである。日本人でも酒癖が悪い奴は手に負えないが、この体格で酒癖が悪いと、何をやっても即トラブルになるのだ。そもそも一人で女がうろついていいような場所ではなかったと、道に迷いつつ自分の迂闊さに芯まで冷えきった涼子は、なにをされるかわからない、とその場を走り去った。

 米兵はそれを見て笑っていた。幸いにも、声をかけただけ、彼らもこんなことで謹慎をくらい、遊びに出れない週末が来るのはゴメンだ、無理なナンパなどするつもりはなかった。

 涼子が走りながら、灯りの指す通りの方へ角を曲がった瞬間に、闇の中から手が伸びた。

「こっちには、来ちゃだめだよ……」

 明るいほうへ強い力で放り出された涼子。道端に倒れると目の前に徐行していたタクシーのヘッドライトが急ブレーキの音と共に目の前で止まった。

 涼子は放心状態。立ち上がろうにも腰が抜けてしまっていた。周囲を見渡すとそこには彼女を見下す人だかり。酔いつぶれた女がタクシーにはねられそうになった。その程度の事。

 さすがの涼子も暗い道へ引き返し、犯人を追う勇気などない。

 野次馬が彼女を取り囲む中、一人路地の中。闇へ消えていくあの男の姿があった。





0 件のコメント:

コメントを投稿