2013年10月31日木曜日

試練



 竹本は会議室に沙里を招き入れると電気もつけずにうつむいたまま席についた。窓から差し込む夕焼けが竹本を照らす。沙里は正面に座るのを避けたいなと、竹本のすぐ隣がいいか、少し離れて、、、なんて戸惑っているうちに、とりあえず座れとため息交じりにジェスチャーされてしまった。

「さっきの個展の話。あれ私の方で通すから、とにかくやってくれ。」

  あまりにあっさりと事が動いたことに、え!?と前のめりになりつつ沙里は続く竹本の話にことの重大さを思い知る。

「君等が肩入れしている中田悟というカメラマン。経歴に花がないんだ。確かに20代の頃、著名な写真賞を受賞して入るが、そのパブリック・ニューエイジとかいう賞、コンテスト的にはわずか3回しか開催されてない。当時、バブル崩壊後のいわゆるあれだ、即戦力って言葉がもてはやされた頃で、経験もない若いのをいきなり実力派だともてはやすような風潮があったろう。それに乗っかって、海外でも活躍する有名写真家を育て、次世代を担う逸材をと外資系の企業と日本の新聞社によって設けられたのがその賞だ。しかしその直後にその外資系の企業ってのが日本から撤退して、それ以来継続されてないんだよ。中田悟はその3回目の受賞者でそこそこ名は売れたが、メディアは移り気なもんで、次世代を育成しないまま撤退した外資系企業の話題へと流れて、大して中田は持ち上げられることも無くという残念な結果になってる。」

 俯いたまま淡々と話す竹本は右手の中指を机にコツコツとあて貧乏ゆすりも始めた。少なくとも、この先も良い話が続きそうもない。

「どこまで調べがついてるのかしらんが、もう少しメジャーな賞を受賞してる人間はいなかったのか? という事だ。それに、彼の素行についても注意が必要だ。渡(わたり)社長は政界進出を狙っていることは君も聞いてるだろう? 中田悟のような普通の男、叩けばひとつやふたつほこりが出るのは当たり前としても、万が一、叩かなくてもぼろが出るような男では絶対に困る。毎晩飲み歩いてるというし、どこでどんな話が転がってるかが問題なんだ。どんな事をしても彼の裏の裏まで知り尽くせ。そして、トラブルが有るようなら、それを担当者として、田村、お前が全部受け止めろ。」

 沙里は、全部自分が受け止めることの意味をすぐ理解できず、答えに困った。

「すでに渡(わたり)社長のプロジェクトに関与し、撮影案件をこなしている中田をこれからアーティストとして持ちあげるんだ。渡社長は言わば、外資系企業が育てられなかった才能を日本人として支え開花させたという業績だけ残ればそれでいい。だからこそ、中田悟にそれなりの旨みを見出している。ただそれだけのことだ。彼の写真の腕は、特に渡社長はなにも見ていない。しかしだからこそ、中田悟は余計にスキャンダルのない、地方に埋もれた輝ける才能でなければならんのだ。これは言うなれば、我々に課せられた使命は、今回想定されるあらゆるトラブルをこちらで全てもみ消すということだ。」

 そんな大きな話になるとは、思ってもいなかった。完璧な人間像を作り出せという話に沙里の頭の中は真っ白になった。

「君が一番最初に、あの男にアレルギー反応でも起こされたらたまらんのだよ。最後まで、なにがあってもあの男を擁護し、来年の年末まで、完璧にフォローしろ。渡社長のプロジェクトを完遂するということは、そういう事だ。」


 帰り道、沙里は竹本の言葉をなんども思い返していた。いつもの、滝のバーにもよらず、ただひたすら、家まで歩いていた。けれど、家には帰りたくもなかった。凍てついた冬の街を、彼女はふらふらと歩き続けていた。

 広島という街が、こういう時にやさしいのは、市内を流れる太田川の分流に掛かる橋。そのいずれにも木製のベンチが川沿いにあり、ふとひとりになりたい時に、どこか一つは、たいてい席が空いていた。それも夜ともなれば、間違いなく気持ちが落ち着くまで川の音を聞いていられた。

 沙里は暫く川面に映り込む街灯の光を見つめていたが、鼻にすっとはいりこむ冷えた空気に思わず大きなくしゃみをしてしまった。

 ティッシュを探していると、バッグから名刺入れが落ちた。それを手に取り、ふと思いついて、沙里は急いで立ち上がりその場から走りだした。

 中田悟の家に行ってみよう。

 もうどうなってもよかった。悩んでばかりいる自分にさよならしたかった。沙里の中で、毎日のもやもやが、結局、悟を好きだから起きていることだと痛いほどわかっていたから。
 市内中心部から横川駅まで来たところで、沙里は握りしめた悟の名刺をもう一度見る。草津とある。どうやったらいけるのか? 土地勘のない沙里は駅まで来ればなんとかなると思っていた。けれど、そんな駅名はJRにはない。横川駅から発車する市内電車の運転者に駆け寄って聞いてみる。草津なら市内電車で行けるが、途中一度乗り換えをしなきゃならないし時間がかかる。JRで新井口という駅まで行くのが早いと教えてもらった。
 沙里は子供のお使いのようにあぶなっかしく、お礼もそこそこに唐突に教えてもらった方へ走って行く。

 横川から新井口までは2駅。わずか10分程度。けれどそれすら気が遠くなるほど彼女の心はその時焦っていた。車窓から見える夜の街の光の筋が、彼女の目を潤ませた。

 新井口駅についてから、彼女はまた途方に暮れる。住所だけ読んだってその場所までたどり着けるわけもない。沙里は土地勘がない上に方向音痴で、しかもスマホじゃない。地図を見ながら歩いたりする事も出来ない。しかもこの駅にはタクシー乗り場というものが駅近くにはないのだ。隣接するショッピングモールまで大きな歩道橋がかかっていて、その先の外れにしかタクシーはいない。よりにもよって、とにかくタクシーを捕まえにくい場所なのだ。
 そんなことも知らずに、ただただ駅の改札を出てからどうしようと慌てふためきながら沙里が歩道橋の方をみると、エスカレーター式の動く歩道が半分ついていて、ショッピングモールへとそれに乗った人々の群れは動く行列のごとくぎっしりと並んでいて、その前に進めない感じがとても窮屈に見えて、沙里は人のいない普通の歩道部分を目指して全力で走りだした。

 どこに向かうとかでもないのに、ただただ走りだした。

 けれど、寒い冬の夜風にあたりながら急に全力で走った沙里の頭にはすぐに激痛が走った。日頃の運動不足のそれである。そして歩道橋の真ん中でとうとう呼吸が早まり、息が上がって、白い息を吐きながらくらくらとよろめいてしまった。心細さも同時に襲いかかった。そして沙里は、ここでとうとう、止まらない涙を抑えきれず流してしまった。泣き崩れるってこういうことなのかと、沙里はその時、身を持って知ってしまった。

 迷子のように泣く沙里。

 動く歩道に乗る人々の群れは、泣きじゃくる彼女を冷たく見つめながらゆっくりと通り過ぎて行く。

 声をかける者は誰もいないかと思った。けれどその姿を見て、一人の女声が駆け寄ってきて、大丈夫ですか?どうしたの?と優しく背中を擦ってくれた。

 しかしこの女性が、木村沙知絵。


 悟の元カノで人妻という、竹本の言っていた懸念材料になりうる女性だった。

2013年10月14日月曜日

とっさの一言




 事務所に戻った沙里は、早速先ほど街で耳にした曲をインターネットで検索した。レイカというアーティストが広島出身であること、彼女のプロフィールのあれこれを調べていくうちに、彼女自身が経験した、失恋とまでは言わないけれど友達以上恋人未満な関係をテーマに曲作りをしていることを知り、少し興味がわいた。

 「どおりで耳に残る歌なわけだ」

 カフェでお茶をしている時もオフィスへの帰り道も、ここ最近彼女の歌声が気になっていた理由をなんとなく理解できた気がした。

2013年9月20日金曜日

沙里、悟の過去を知り始める時





 程なくして、悟は当然のことながらiPhoneのカメラ機能に興味を持った。レイカはいつも、悟が寝た後に自宅にやってくる。いつの間にか現れては、いつの間にかそばに居て、いつの間にか、大切な存在になった。そんな、いつ現れるとも知れないレイカとの距離を縮めておけるものが、iPhoneで、twitterで、ソーシャルネットワークだった。

 レイカに見せたいものを、僕が撮る。

 悟がそういう心境になるまでに時間はかからなかった。

2013年9月16日月曜日

その手に、持つべきもの……




 悟と彼女、レイカの出会いはありきたりであり、ありきたりではなかった。

 悟は偶然、彼女がアリス・ガーデンの野外特設ステージでギターを手に歌う姿を目にした。

2013年9月5日木曜日

悟と沙里。入りくんだ場所




 翌日、沙里は悟と二人で広島市内、紙屋町から八丁堀まで本通りを歩いていた。

 沙里は少しでも悟との距離を縮めたかった。焦りというか、公私混同しつつも悟を昼間の街へ誘いだした。普段どんな感じで撮影をしているのか、もっと企画のために知りたいと申し出たのだ。それもおかしな話ではある。渡(わたり)が持ちかけた企画通り、ウェディング用の撮影をすればいいだけの話だし、悟の創作活動の一端を、いつどんな時にシャッターを切りたくなるのかなんてことは、全く仕事とは関係がないからだ。

 悟は何も考えていないのか? すんなりとOKして街へと繰り出してきた。

2013年8月5日月曜日

恥じる時

 

 

二千十一年 十二月 中旬

 沙里と一ノ瀬(いちのせ)は、PR代理店communの会議室で、島田と上司の竹本、そしてクライアントの渡(わたり)とともに企画会議をおこなっていた。

 沙里の上司竹本は、したり顔で頷くのみ。ほぼ渡(わたり)の独演会状態であった。

2013年7月8日月曜日

カウンター越しの恋愛……




 遠雷が鳴り響き、突然のゲリラ豪雨に人々は蜘蛛の子を散らすように一斉にその場を走り去る。タクシーのクラクションが鳴り響く。立ち上がれないでいる涼子の肩を叩くものがいる。涼子は体が震えてしまい後ろを振り返ることもできない。が、脅える涼子を抱きしめ、かかえて立ち上がらせようとしていたのは悟だった。

 悟は黙って涼子をおぶり、そのまま涼子のマンションまで歩いて行く。降りしきる雨の中、その姿は滑稽で、ずぶ濡れの他人へ傘を差し出すことのない人々の群れを押しのける異様なオーラをはなっていた。交番の警察官も、二人の姿を黙って見ているだけだった。

 部屋までの道、涼子は悟の背中がとても愛おしく感じられ、ずっとこのまま雨がやまないでいてくれたら、もっと強くこの背中を抱きしめていても恥ずかしくない……    と、雨が強く降れば降るほど、強く、強く悟の背中を抱きしめていた。

 部屋に着くと、悟はその気持ちに応えるように、玄関で涼子を下ろすと崩れるように抱き合いキスをした。
 
 はじめは涼子もそれを受け入れていた、けれどその時、涼子の脳裏に昔のことがよぎった。キスをされながら、涼子はカッと眼を開き、悟を全力で突き飛ばした。玄関の扉に打ち付けられた鈍い音が真っ暗な部屋に響いた。

   「その優しさが大嫌いなの!」

 悟はあっけに取られながらも、いつもの涼子のことだから、今日はいつにもまして機嫌が悪いんだろうと優しく微笑み返そうとした。が、涼子の眼差しがいつもと少し違う。涼子は青ざめた顔で悟に声をふり絞りながら静かに話しはじめた。

「あんたは……自分が最後まで愛せない人にも……優しさを振りまいて勘違いをさせる。その先の責任まで考えずに。人生が狂ったのは、楓だけじゃない。」

 雷がまた一つ鳴り響いた。差し込む光が涼子の涙とも頬伝う雨の雫ともつかないその表情を浮き上がらせた。悟は直感した。この女、嘘をついている。それも小さい嘘ではなく、大きな隠し事をしていると。

「おまえ、楓の事を追いかけてるなんて、嘘なんだな」

 涼子は悟に飛びかかった。もう帰ってくれと泣きわめいた。鍵のかかっていない玄関の扉はいとも簡単に開き、外に放り出された二人。悟への罵声が豪雨と混じりあい、雨に濡れた通路に悲鳴ともとれるヒステリックな涼子の声がマンション中に響きわたった。 近隣の住人が警察を呼び、無抵抗のまま力ない涼子に叩かれ続けた悟がようやく解放される時、深夜3時を回っていた。

  駆けつけた警察官になだめられ、部屋に入って行く憔悴した涼子の後ろ姿。悟が彼女を見たのは、それが最後だった。

 悟は夜と朝の境めの時間を駅に向かい歩いていた。

 雨上がりの明け方の空は、空気が澄んでいるからなのか、ちぎれていく雲と、朝陽の色合いが美しく、誰かに見せたいと思うものだった。 けれど今、悟はこの朝陽を涼子に見せることができなかった。この空が美しくあればあるほど、悟の虚しさはつのっていくばかりだった。 


 数日後、滝は自身のバーである男に語りかけていた。

「カウンター越しの恋愛ってあると思うんですよ。そのことを結局、若い奴はわからないし、わかろうとしないから、だから、悲劇が起きた。
 
 運命の人だと思う女と、夜の酒場で、それもカウンター越しに出会うわけがない。

 横に並んでさえいれば、社長も若造も皆平等にここで酒を呑める。けれど、これが客ともてなす側じゃあ、わけが違う。酒をつぐだけに見える女も、酔っているふりをしながらずっと酔わずに、冷静に男を見てるっていうのにね。それに気づいて騙される男も、最近じゃあ減ったようなきがするな……」

 男は最後の1本のタバコに火をつけた。そう、あの、悟と涼子を監視していたあの男だ。

 男はタバコを深く吸い込んだ。

「あんたの言うそんな哲学、今のガキは持ってないだろうな。」

 煙を吐き上げながら、男は呟いた。オールドパーのロックを煽り、男は席を立つ。

 滝は黙って、グラスを磨いていた。男はさり際に一言、滝に言う。

「時間はかかるかもしれんが、だいぶ見えてきたよ。この事件のことが。あのガキは、ほんとに何も知らないんだな。」

 滝の手が止まる。そして男と目があうと、滝は黙って頷いた。

 男は、去っていった。 

 バーの中に、静けさだけが残っていた。

2013年6月20日木曜日

町と闇



 夜、悟は涼子とよく行く小じんまりとした居酒屋にいた。飲み屋街にある居酒屋というのは、一つ裏通りの隅の方にあるもので、街の片隅にポツリとある赤ちょうちんのそれと同じく、その町で働く人々を別け隔てなく受け入れる灯りであり、こういう場所の居酒屋は普通の客というよりは出勤前の夜の蝶や、店のオーナーなどが多い。
 悟はと言えば、よく来る変わった客の一人で、何度通おうと、この町の住人としては受け入れられていないような存在だった。なぜなら、彼はこの町にとって客であり、この町で商売をしている仲間ではないからだ。そういう男に居酒屋の店主も話しかけたりはしない。

2013年6月17日月曜日




 二00六年 十月

 三上涼子(みかみりょうこ)は、満月の夜、飲み屋街、雑居ビルの非常階段で酔いつぶれて眠る悟を、その傍に立ち、蔑み、見つめていた。


 どうせこの男も、そのうち私に手を出してくる。


2013年6月11日火曜日

まこの涙と、悟の過去




 1ヶ月の間、悟とまこは一度も会わなかった。


 まこと悟の、いつもの帰路に現れた三上涼子という女性。そこで三上が口にした楓(かえで)という人の名。 悟があまりに真剣な表情で「今日はここで別れよう」と言った事。それを考えようとしなくても考えてしまう1ヶ月は数年にも感じられ、悟が図書館に現れなくなった日々、自分の体調が崩れるのではないかというほど心が揺さぶられたことも、初めての経験であり、こんな気持が自分自身にあるのかと、自分の無表情なはずの感情が困り果てるほど神妙になり、家族からもどこか最近おかしいといわれるようになり、まこの人生のなかで最も特殊な時間が過ぎていた。


2013年6月9日日曜日

図書館がくれた日々と楓の影



二00五年 六月
梅雨の夕暮れ。突然の豪雨の音。傘を持ち合わせなかった人々がビルの中に飛び込み雨宿り。 そんな中、一人折りたたみ傘をバッグから静かに取り出し家路を急ぐのは小松まこ。

2013年6月7日金曜日

一ノ瀬みかこ(いちのせみかこ)の思い




 翌朝9時頃。カーテンを締め切り、ひとすじの光も入らない部屋に、シャワーの音が豪雨の如く響いいている。1Kにしては少し広めな八畳ほどの和室部屋を丸く、薄オレンジがかったルームランプが小さく照らす。敷きっぱなしの布団の横で、黒く四角い、冬はこたつにもなるテーブルがひとつ。その上に昨晩着ていたブラウスなどが脱いでそのまま重ねて置いてあった。

二〇一一年 一二月 初旬・深夜





二〇一一年 一二月 初旬・深夜

 滝のバーに橙子がやってきた。長い黒髪を揺らし一人カウンターに座る。床までしっかりとのびた長い足。赤いヒールは男なら誰もが目を奪われる。彼女が注文したカクテルはヴェスパー。

 滝はいきなりこれかとタイを締め直しカクテルを作り始めた。

 滝と橙子、ふたりの間には緊張感がただよっている。

元カノ、島田橙子(しまだとうこ)の過去と現在の関係





「あと一ヶ月待ってくれんじゃろうか!」

 滝に頭を下げる悟の姿があった。店のツケが払いきれない今の状況はあの頃とは大違いだ。滝も別段責めもしない。いつものことだからだ。それよりも悟がまた撮りたいなにかと出会えたことの方がなにより嬉しかったから、少しくらい応援してやろうとは思っていたから。

「まあ、いいけどさ、沙里ちゃん撮りたいんならお前ももう少し稼ぎ良くしないとどうしようもないだろう。自分が好きなもの撮って作品にしたいなら金もいる。受け仕事でも何でも、そろそろ本気で探さねえといけないんじゃないのか。」

二千年  その冬のクリスマス




二千年

 その冬のクリスマス、雪など降らない日本のイブに、悟は自分が吐く息の白さを、今でも鮮明に覚えていた。悟はその日、朝が来るまで、街中の飲み屋という飲み屋を、たった一人の女を探しさまよい続けていた。探していた女の名は、楓(かえで)。本当の名など知らない。

 自分の愛していた存在が死んでしまう。その事を受け入れられないまま。朝など来てほしくないと、自分の無力さに苛まれながら、悟は歩き続けていた。

再起の一言




 滝のバーで、胸とあごを突き出して沙里は上から目線の渡を真似している。ちょっと振り返りぎみの姿を何度もしつこく繰り返しているのだが、表情が繰り返すたびに滑稽にひどくなっていく。

「こうですよ、こう! この街にうんたらかんたら! とか言っちゃうの!」

 酔っ払う沙里を白い目で見ながら他のお客が帰っていく…….。滝は酔っ払った沙里のことよりも他のお客の対応に必至。もうどうでもいいやこの娘と言わんばかりに沙里を押しのけカウンターを飛び出していった。

「タイミングの悪い……」

PR代理店 commun(コモン) と渡(わたり)というオトコ




PR代理店 commun(コモン)

 沙里の勤務先はフランスに本拠地がある外資系広告代理店。主にPRイベントを仕掛けるのが仕事。食品、アパレルを中心に、国内外のあらゆる依頼に柔軟に答えている。

 communは国内に支社展開をしているというわけではなく、一つのプロジェクト単位で、地方であれなんであれ「日本」というくくりの中でスタッフをプロジェクトチームとして派遣する。その感覚は「世界の中の”日本”のクライアントのために」である。

 一度任せてしまえばプロジェクト立案から起動までレスポンスは非常に早く、高額なコスト条件をこなせるクライアント意外の仕事は請け負わないという、ある意味でシビア、ある意味では理にかなった強気の事業展開をしていた。そのためにcommunの利益率は非常に高く、上場後の評判も非常に高い。

 しかし、日本の競合代理店からすればまさしく黒船であった。

 カフェの名は「chaton(シャトン)」  




 翌朝、沙里は自宅のベッドにいた。カーテンからほんの少し差し込む強い光線に、昼を過ぎたあたりかと、ぼやけた眼をこすりながら起き上がる。 テーブルの上に脱いだ洋服がまとめられている。それ事態もおかしなことなのだが、それよりもきちんと畳んでいない事が気になった。どれだけお酒を飲んだんだ? と思いつつ、玄関に鍵を掛けているのかどうか、すぐ確認に行くと、これも案の定チェーンが掛かってない。 これはいけない。よほど最近ストレスでも溜め込んでいたんじゃないかと、沙里はちょっと、自分をもとの生活スタイルに戻そうという気持ちになってシャワーを浴びた。

二〇一一年 一一月 金曜・深夜





二〇一一年 一一月 金曜・深夜

 遡ること一年前、まだ悟と沙里が出会ったばかりの頃。

「最近、一人で飲む酒の量が増えたんじゃないか?」

 沙里を気遣うのは、バーマスター、滝 良彦(たきよしひこ)。 

 フォトグラファーとして過去にはそれなりに活躍した人物らしいが、その経歴を口にすることはまずない。

二〇一二年 十二月二十四日 広島




二〇一二年 十二月二十四日 広島

 夕暮れの繁華街。

 この街には珍しい粉雪が舞い、クリスマスムードは最高潮の盛り上がりを見せていた。多くの家族連れ、冬休みに入ったばかりの学生カップルで溢れかえる街に加えて忘年会シーズンでもある。多くの人の流れで公共交通機関も麻痺寸前といえば大げさすぎることもなく、電車が混み合う前に帰路につこうと人並みをかき分けるサラリーマンの姿も少なくなかった。

 その足並みを一人でも多く引き止めようと、オープンしたばかりの家電量販店には、即席サンタが多数駆けつけ、不況続きのこの国の寒さを、一時であれ払拭するべく声をはりあげている。

 平和記念資料館から始まる平和大通りには、毎年この時期になると<ひろしまドリミネーション>と題されたイルミネーションが、通りの木々に豪華に飾られ、夜に向け多くの家族連れやカップルで賑わいを見せる。このきらびやかなイルミネーションの中で、一人マイクを片手に震えている女性がいた。




 田村 沙里(たむらさり)である。
 
 PR代理店会社勤務の彼女は帰国子女であり、二十六歳という若さにしてこれまで海外のクライアントとの仕事も多数こなし、地方には珍しい逸材として、界隈で評判の若きエースだ。タイトなスーツが、ややぽっちゃりとした体を引き締め、今日ばかりは余計に張り詰めた空気を醸し出していた。

 PRイベント会場にいる時、彼女の眼差しは鋭いがしかめっ面というわけではなく、スタッフの動きも細かくチェックし見逃さない洞察力の鋭さで洗練されている。常にiPadを片手にタスク(仕事の流れ)をチェックし、彼女さえいれば全スタッフが会場での作業上必要な情報はすべて手にはいり、司令塔として十分すぎる、先の先を読んだ状況判断をこなしてくれもする。

 これほどの彼女が、マイクを手に震えているのだった。

 イベント二日前のこと。
 周囲のスタッフは彼女がジャケットの前ボタンを外し、まるでお風呂にでも入っているかのような雰囲気で「つかれた~」と伸びをするのをいつも待っていた。それこそが本日のお仕事終了の合図。 毎日ほどよい仕事量で難なく一日が終了するので、スタッフは皆もうそろそろか? と少しばかりそわそわと作業を行なっていた。

 沙里はいつものようにジャケットのボタンを外すと会場隅のスタッフチェアに腰掛け、バッグの中から小さな花柄の女の子らしい可愛い巾着を取り出した。スタッフが見守る中彼女は淡々と小さな湯のみをとりだして、ペットボトルのお茶を注いだ。

「このあと全体チェックを一度行います。各自30分まで休憩で」

 街はクリスマス。「わりかし楽な仕事だ」と思ったのにと、スタッフは落胆の表情。ざわめくスタッフに、沙里は追撃の一言。

「皆さん手は、抜いてませんよね」

 巾着には気をつけろ。が、この日からスタッフの合言葉になった。

 彼女が、初めて自分から利益に関係なく手がけたいと思い、企画をし、スポンサーを発掘して仕掛けたイベントが、イルミネーションの中、屋外特設会場で開催する、フォトグラファー田中悟(たなかさとる)の写真展だった。それだけに気合の入れようが違ったのである。と同時に、それを開催する意味は沙里の個人的な思いでしかなく、周囲を振り回すことになる寸前のところで、彼女はこのイベント自体に周囲を説得し納得させるだけの意味を見出そうと、アートとビジネスのバランス感覚をギリギリのところで両立するべく心をすり減らしていた。

 しかしここまで入念に準備をしてきて、イベント当日の今日、肝心の田中悟が、スピーチの時間になっても現場に現れていないのだ。

 悟と昔からの知人という、スポンサーでギャラリー経営者、島田 橙子(しまだとうこ)は、集まった多数の観客を前に固まる沙里の耳元でささやいた ……。

「やっぱりね……」

 この一言と、橙子がため息とともに見せた「私のほうが彼を知っている」 という、ほんの少し勝ち誇ったような微笑みを、沙里は見逃さなかった。そしてたまらなく悔しかった。マイクを力強く握りしめ、震える音が、スピーカーからかすかに漏れ出すほどに。

 その場の異変に気づいた観客は、誰からともなく雑談をやめ、一人、また一人と沙里を凝視する。司令塔の言葉を失ったスタッフはただただ動揺するばかり。

 悟を待つのか? 待たずに不在のコメントをここでするべきか?


 彼女の時間はこの時、完全に止まっていた。